第3夜 6節
文字数 3,935文字
私が通うそこは、中高一貫の私立学校だ。創立七十年を超える本学は生徒数が約八百人で、稲穂を模した校章が特徴的である。そこに通う生徒達は「友愛、自主、勤勉」と云う校訓をもとに、日々友人と協調しながら勉学や部活動に励んでいる────。
………そんなのは、単なる表面上の姿だ。
「───や、めてっ…!」
玄関口で数人の生徒に囲まれ、髪を引っ張られて、私────星野有希はそう声を上げる。その無様な抵抗の様子が面白いのだろう。私を囲む生徒達はくすくすと笑った。……彼女達は、私と同じく今年度で二年生に進級した同級生だ。クラス替えで彼女達とは別のクラスになる事を祈っていたのに………神様は無慈悲だった。
ここまで言って察する人も居るだろう。そう……私は、彼女達にいじめられている。
國宮学園中等部に入学した当初、最初の一学期は平穏だった。内気な私はなかなか友達を作る事ができなかったが……それでも、特に誰かに嫌われていると云う事は無かった、と思う。しかし……一年生の夏休みが明けた頃から、私の周りの世界は狂い出した。
二学期のはじめ───教室に入った私に向けられたのは、クラスメイトからの白い目だった。勿論それはクラスメイト全員からでは無い。けれど……身に何も覚えの無かった私からすると、それは本当に突然で、理不尽なものだった。
話を聞けば、クラスのカースト上位の女子生徒、宮下さんの想いを寄せていた相手に私が告白したとか……ファーストキスを奪ったとか……そういう話が出てきた。当然、それらはどれも真実では無い。そもそも、内気でコミュ障な自分は、夏休みに同じ学校の生徒と遊んだ事すら無い。根も葉もない噂話。───今なら思う、「理由」なんて、本当はどうでも良かったのだ。彼女達は、ただ………自分より「下」の人間に、ストレスをぶち撒けたいだけなのだろう。
そんな経緯で宮下さんを敵に回してしまった私。宮下さんには、「囲い」のような友達が多く存在する。……そこには女子生徒だけでなく、男子生徒も居て。女子生徒と男子生徒が分け隔てなく接する事が出来ているという点に限っては、学校的に喜ばしい事なのだろうが……私からすると、女子からだけでなく一定数の男子からも白い目で見られて、ただ苦しく惨めな思いをするだけだった。
………いじめは、二学期の間にどんどんエスカレートした。
最初は無視だけだったのが、次第に陰口を言われるようになって。机の中のノートや教科書、上履きを盗られるようになって。それらや机に落書きがされるようになって。そして────叩かれたり、引っ張られたり、雑巾を投げつけられたりするようになって。
……はじめのうちは、ただの悪ふざけなのだろうと思っていたが、もうここまで来ると完全な「いじめ」だ。勿論、先生に相談した事もある。先生はきちんと「対応します」と言ってくれたし、犯人が宮下さん達だと突き止めて注意もしてくれたようだった。しかし……宮下さん達は、自分達の両親に「何もしていないのに先生が怒ってきて」と泣きついたらしく、学校に保護者達のクレームが寄せられたらしい。教師は保護者には逆らえない。変に悪評されて学校の評判を落としたくも無い。そんな訳で……教師達は宮下さん達に何も出来なくなって、次第に私を取り巻くいじめへも見て見ぬふりをするようになっていった。
「や、め…てよ…っ!」
「あははっ、やだやめなーい!ほんとあんたってウケる、ウケすぎてムカつく」
「スズカ、写真撮ろーよ、ぐちゃぐちゃ頭のユキと撮ってインスタ上げよ」
「え、めっちゃいいそれ!撮ろ撮ろ」
「じゃあ髪もっとぐちゃぐちゃにせんといけんね」
「いやッ……!」
スズカ───宮下鈴香さんは、中の良い女子である田西沙羅さん、岡本亜澄さんと一緒にそう笑いながら私の髪に手を伸ばした。やめて、来ないで、触らないで────ッ
「やめなよ」
……がっ、と云う音がした。そして、宮下さんの手が私の髪に触れる事は無かった。私は恐る恐る目を開く。
「………あんた誰?」
そこには、宮下さんが此方に伸ばしてきた手を掴んだ、ブロンドの髪の小柄な女子生徒が居た。私から見て右側の髪に巻かれた青いリボンが揺れている。さっきまでは居なかった。一体彼女は、何処から……?
「私もあなた達を知らないから、名乗る必要は無いんじゃないかな」
「……へぇ、何?ユキの友達?ユキって友達居たんだぁ」
「………今、何しようとしてたの」
「何って、写メ撮ろうとしてただけなんだけど」
「この子に、酷い事しようとしてたでしょ」
「え?あたしバカだからわかんなぁい、てか何?ガチギレ?こわっ」
「………」
私は、それを唖然としながら眺めている事しか出来なかった。……彼女、怖くないの…?だって、宮下さん達に楯突いたら、貴女もいじめられるかもしれないのに……!
ブロンドの髪の女子生徒は深い湖のような青い瞳で宮下さんをきっ、と睨みつけ……宮下さんの手を掴むその華奢な腕に力を加えた。その手からぎり、と音がする。
「いッ…た……!何すんのよ、痛いでしょ!!」
「この子に何もしないなら離すよ」
「あんたには何も関係無いでしょッ!!離せよゴミカス!!」
「関係あるとか無いとか、それこそ関係ないよね?……この子に何もしないで」
「うる、さい、なぁッ……!邪魔すんなよ!!」
「……」
「離せ!どけよ!殺すぞ───!!」
宮下さんの剣幕に、びくりと身体が跳ねた。もう、いいよ、やめてよ、怖い────!
目の前の女子生徒は、そんな宮下さんの言葉を聞いて…一度顔を伏せた。……殺すぞなんて、そんな事言われたら怖いに決まっている。私なんかのためにそんな汚らしい暴言を吐かれて、申し訳なくて、心が痛い。
………けれど、目の前の女子生徒は……「そう」と一言だけ言うと、顔を上げ────
「じゃあ、私もあなたを殺そうか」
「─────!?」
その言葉は、宮下さんの「殺すぞ」なんかとは比べ物にならないほどドスが効いていて。良い言葉が思いつかない。思いつかない、けれど……彼女はまるで、本当に宮下さんを殺そうと決意しているように聞こえて───。
その言葉の衝撃で、びり、と世界が揺らいだ。
ぎりぎり、と彼女が掴む宮下さんの腕の骨が哭いた。
宮下さんは、そしてその後ろの田西さんと岡本さんも……そして私も、息をする事すら出来なくて……場に重い沈黙が訪れた。
………それをはじめに破ったのは、廊下の方から聞こえてくる知らない声だった。
「───レナ!何やってんの!?」
「………セツナ…」
ぱたぱたと走りながら、紫がかった黒髪に黄金の髪を持つ女子生徒がブロンドの髪の子を呼んだ。……どうやら彼女達は、レナとセツナ…と云うらしい。レナさんの意識が逸れた瞬間に、宮下さんはばっ、と自分の腕を彼女の手から離して抱えた。セツナさんは私達の様子を見て、きょとんとする。
「……何事?」
「私も分からない、けど───」
「………ッ!!!!」
「あ───ッ」
レナさんの言葉を遮って、居心地が悪くなった宮下さん達は廊下へ走り去っていった。ぶつかりそうになったセツナさんが「わ、」と言いながら避ける。
宮下さん達が居なくなって………私はただ、呆然としていた。
何も、され…なかった……。
セツナさんはレナさんの方に駆け寄って、話し掛けた。
「……え、何…?絡まれたの?」
「や……この子の髪、引っ張ってたから……」
そう言いながらレナさんが此方に視線を遣る。二人と目が合って、びく、と身体が硬直する。セツナさんが心配そうに声を掛けてきた……悪い人達では、なさそうだった。
「え、と………大丈夫?」
「あ……は、はい……お陰、様で……」
「あの人達────え、いじめられてたり……?」
「いじめ………ってほどじゃ、無い、かも、しれません…けど…」
嘘だ。宮下さん達が私にするのは、立派ないじめだ。
けれど……つい、見栄を張ってしまう。その上「宮下さん達は、遊んでるだけなんです」と彼女達を庇うような発言もしてしまう。……つくづく私は、弱くて惨めだ。助けてください、の一言すら言えないのだから。
……そう思い始ると、自己嫌悪の波が心を侵蝕してくる。私はふいと目を逸らし……「すみません、迷惑かけて」と無意識のうちに謝った。
目の前の二人は顔を見合わせ────そして、レナさんが優しく微笑んだ。
「迷惑だなんて、思ってないよ。辛い時は助け合わなきゃ───あなたはもう、一人じゃないよ」
「え………」
「私、レナ。夜国玲菜。こっちはセツナ……白橋雪奈。……ねぇ、あなたの名前は?」
「…………ユキ、です……星野、有希……」
「ユキ、か……うん、教えてくれて有難う。これから何かあったら私達を頼って。力になれるかは分からないけど……きっと、一人でいるより心強いから」
「え、あ…の……?」
そうつらつらと話しかけられて、頭が混乱する。そういえば、この学校に入学してから生徒とろくに話してなかったかも……。こう云う時、有難うと言うべき?そんな事、と断るべき?……分からない。
そう私が困っていると、セツナさんは壁の時計を見て───そして、ぎょっとする。
「レ、レナ、早く行かないと遅れる!!」
「え、っ…もうそんな時間!?」
「そうだよ…!行くよ行くよッ!」
「あッ、待ってセツナ───ユキ、またね!!」
「えっ、あ、え………!?」
ぱたぱたぱた。
軽快な上履きの音を鳴らして、二人は風のように廊下の向こうへと消えていった。一人取り残されて唖然とする私。………何、だったの……?
私も同じように時計を見遣る。…HR開始の、五分前だった。
「ま、まずい……!」
後を追うように、私も廊下に駆け出した。
そう────この時から、既に私の運命は動き出していたのだ。