第2夜 11節
文字数 9,378文字
春が近づいていると云えど、三月の日没はまだ早い。十八時を目前として、夕陽は地平線の向こうに顔を埋めていた。空がオレンジから紫へ変わりつつある。
十八時十五分を過ぎても、依頼人は現れなかった。セツナは暗くなる空を見上げてそわそわし、レナはきょろきょろと辺りを見回していた。どんどんと暗くなっていく世界。レナが口を開く。
「……おかしいな、十八時って聞いた筈なんだけど…」
「騙されたとか…?」
「うーん……そう、なのかなぁ……でもお金払ったりしてな────」
ざっ。
不意に、数人の足音がした。レナとセツナは振り返り────そして、驚愕する。
そこに居たのは、セツナを狙っていた男達だったからだ。
セツナはびくりと体を強張らせ、レナはきっと睨みつけた。
男の一人が頭を掻きながら此方へ歩み寄って来る………煙草の臭いが、つんと鼻を突いた。
「よぉ、セツナ…それからお嬢ちゃん。久方ぶりだな。」
猫を被ったような言い方に後ろの男達がひひひと笑った。
レナは警戒を強めながら慎重に応える。
「……あの時の…。まだ、セツナを狙ってるの…?」
「御光の家に連れ戻す云々の契約ならもう終わってるぜ。怖いなぁお前のお袋……散々怒鳴りつけられちまったよ、『見つけたのにどうして連れ帰らなかったの!そうでなくとも殺す事くらいは出来たでしょう!』ってな…。ありゃあ目が無事なら血走りすぎて白目が真っ赤になっていただろうよ」
「…じゃあ、もうセツナの事は……」
「……俺は人に上から怒られるのが嫌いだ。あれは相当屈辱的だったね……だから、御光にはちとばかり痛い目を見てもらおうと思ってな。そしてこれは、お前への復讐でもある。」
「………?」
「知ってるぜ、御光のお家は穢れを嫌うんだろ?殺生をする、殺生をされると云う穢れが。だから俺はセツナ、お前を殺す。」
「!!!」
「ひ、……っ!」
「その罪をお前の両親になすりつけ……そうすりゃ、どうなるかなぁ?お前の親御さんは穢れてると判断され、その穢れは伝染してお家がパァだよなぁ?……ひひッ、あいつら言い逃れは出来ねぇだろうよ、なにせずっと虐待してきたんだしな……頭の空っぽな本家のご老人連中も、薄々気付いてるだろうしな」
セツナは息をする事すら忘れて戦慄した。………彼等はきっと本気だ。本気で、私を殺そうとしている…!
家に居た時も、もしかしたら死んでしまうかもしれないと云う恐怖は常にあったし、あの夜……父にカッターナイフを渡された日も、強い恐怖に駆られた。けれど、彼等は自分の両親だし、自分の一族は穢れを嫌うから…と「もしかしたら話が通じるかもしれない」と云う気持ちがほんの少しはあったのだ。
だけど、今この目の前にいる男達は赤の他人で、セツナを殺す事に明確な意思と理由と利益がある。だから、きっと…本家に隠さないといけない両親の虐待よりずっと酷い目を見て、本当に殺される。
それが……それが、堪らなく怖い……ッ!!!
レナはそれを察すると、セツナを庇うように立ち塞がった。
「……セツナを殺すなんて、絶対に許さない。」
「くく、お嬢ちゃん……ちょっと間違えてるぜ。これは『依頼』だ」
「…依頼?」
「嗚呼、日給一万円の仕事…って言やぁ分かるだろ?依頼人は俺達だよ……依頼内容は────」
にたぁ、と彼は顔を歪めて嗤った。
─────『お前』が、セツナを殺す事だ
……と。
「……!?」
「……ッ!?」
レナとセツナは、息を呑んで顔を見合わせる。
…レナが?レナが私を、殺す…!?
男達はけたけたと嗤い……レナをじろりと見遣った。
「知ってんだよ、お前……【仕事】で殺ってんだろ、何人か。今更人を殺す事くらい造作もねぇよなぁ?だってあの時、俺達も殺そうとしたんだろ?簡単な仕事じゃねぇか。」
「ッ」
「レ、ナが……人を……?」
初耳だった。
てっきり、自分が傷付けられるだけの仕事を選んでいると思っていた────まさか、人を傷付ける仕事もしていたとは。……それもそうだ、職種を選ぶ余裕なんて無かった。仕方ないんだ。でも………。
レナは、セツナからふいと視線を逸らし、俯いた。両の手に、ぎゅうと力が入っている。
……セツナは、最初にレナに対して感じていた「気」を、すっかり忘れていた。
そうだった……レナは、真っ黒な邪気と殺気を、その瞳の奥に宿していたんだ。
そう悟った途端、男の言った台詞がいやに現実味を帯びてきて……レナが人を殺める事もあったかもしれないと云う事が容易に想像出来てしまって……恐怖が湧き出てきた。嘘だよ、信じちゃダメだよ、と言って欲しくて、縋るようにレナを見る。……だが、彼女は怯えたように視線を彷徨わせるばかり。
…その様子が、余計に「嘘では無い」と物語っているようで────。
「セ、ツナ……」
「レナ……うそ、だよね……?」
「………っ。」
「本当に、人を…殺したの……?」
「………」
ねぇ、なんで黙ってるの…?
セツナはそう詰め寄る。レナは青い瞳を揺らし、手をぎゅっと握り締めて………そして、覚悟を決めたように言った。
「殺した………。」
「……何人?」
「八…人………」
「そんなの……そんなの、重罪だよ……ッ」
「分かってる……でも、そうでもしないと、お金は手に入らなかった…ッ!!」
レナは誰かを傷付けるような人間では無いと、信じてた。
誰かの未来を奪うような事をしないと、誰かを苦しめる事はしないと、そう信じてた…!
なのに、なのになのに…ッ!!
………人殺し。
彼女は人殺しだ。悪魔だ。化け物だ……!
「せつ、な、でも、」
「────このッ、人殺し……ッ!!」
「…っ、!!!!」
セツナはレナを睨みつけ、レナは一歩後退った。
友達だと、家族だと信じていたのに。信じていたのに!
……けれど、信じていたのはレナも一緒だった。
友達だと、家族だと信じていたセツナから、失望され、否定され………それは、とても苦しい事で。それは、セツナには痛い程分かっていた。分かってる。仕方ないんだ。だけど、だけどどうしても許せない。
その怒りの半分は、レナでは無く自身に向けられていた。
彼女ひとりにそんな重罪を背負わせて、自分は身を守る事しか考えられなかったと云う事実に腹が立った。……けれど、それを認めたくなくて。セツナは、レナを貶した。
「なんで、なんで何も言わずにそんな事するの…!?そんなに、そんなに私が信じられなかったッ!?そんなに弱いって見下してたの!?」
「ちが、そんな、」
「五月蝿いッッ!!!レナの馬鹿、ひとりで何もかも背負い込んで罪を重ねて……人なんて殺してたら、【表社会】になんて行けないよッ!!!!私言ったよね、誰も傷付けない、誰にも傷付けられない世界に行こうって……そのために誰かを傷付けてるんじゃ、意味な───」
「───そんなのッ!!!!」
レナは俯いたまま叫んだ。
その叫びは、とても悲しい声色をしていた。
セツナはその剣幕に驚いて口を閉ざす。……居心地の悪い沈黙。それを破ったのはレナの方だった。
「……そんなの、分かってる…。だから私は、最悪……【表社会】に行けなくても、いい」
「何を、言って…」
「セツナが救われてくれたらいい。セツナがちゃんと、幸せになってくれたらいい。私は大丈夫だから…こんな狂った世界でも、生きていけるから」
レナはくるりとセツナに背を向けて男達を睨みつけると、吼えた。
その背中は……あまりに小さかった。
「依頼は受けられない。報酬も要らない……今の手持ちでも、セツナは【表社会】に行ける。そんな訳で、さよなら。あなた達に用は無い」
「……は、」
レナはそうきっぱりと言い切るとセツナの方を振り返って笑った。
……痛々しい笑顔だった。
「……ごめんね。約束、守れないね。……でも、私は人殺しだから。だから、幸せになる権利なんて、無い」
「レナ……」
「セツナ、早く行って。今から走れば明日には綺麗な朝日を安心して見られるよ。………ごめんね。一緒に行こうって、言ってくれたのに…ッ」
レナの細めたその瞳から、ぼろぼろと涙が零れた。
そこで、セツナは気付く。
……彼女は、諦めるつもりなんだ。自分が幸せになる事を、諦めるつもりなんだ…ッ!
セツナも同じように瞳に涙を溜めながら、駆け出した。
────それは、レナが言う通り駅のある方へ……では、無い。
ぎゅっと。
レナの小さな身体を、セツナは抱き締めた。
レナの青い瞳が見開かれる。
「ごめんねって───」
「え……」
「ごめんねって言うのは、私の方だ…ッ!!レナが独りで、ずっと苦しんでたのに、悲しんでたのに、何の力にもなれずに……ううん、なろうともせずに日々をのうのうと過ごして……ッ!!ごめん…ッ、ごめ…っ、気付けなくて、ごめんね───」
「せ、つな………っ、そん、なこと────」
「酷い事言った。絶対に言われたく無かったような、酷い事───私は、赦すよ。赦したい。レナが罪を抱えてるなら、その半分を、私にも背負わせて。だって……私も、それを望んでいたんだから」
そうだ。
レナに人を殺させたのは、他でも無い自分なのだ。
レナが人を傷付ける事で得たお金を、必要としていた。
……なら、彼女の罪は彼女一人で抱えるべきものでは無い。
私だって───共犯なんだ。
レナは視線を泳がせながら…怯えるように、セツナを見た。
「……私は、汚いよ。穢れてるよ。たくさんたくさん、過ちを犯してる。人だって、たくさん傷付けてる。人殺し。化け物。犯罪者……幸せになる権利なんて、」
「私は、幸せになってほしい。」
「…!」
レナがセツナを救いたいように、セツナも───私もまた、レナを救いたいのだ。
彼女は、私のたった一人の友達で、たった一人の家族だから。
瞳を見開くレナ。
セツナは、続けた。
「自分が幸せになるのを許せないなら、私のために幸せになって。……私は、嫌だよ。レナを置いて独りで幸せになるだなんて、望んでない、そんなの出来ない。私の幸せには───レナが居ないと、ダメなんだよ」
「せ、つ…な………」
「だから【表社会】に行くのを諦めるだなんて言わないで。次の仕事をまた探そう。罪は一緒に背負って行こう。私は、レナを独りになんてさせないよ」
「……ッ!!」
ね、と手を差し出すセツナ。
レナは瞳いっぱいに涙を溜め、うん…と頷いてその手を掴む─────
───────事は、叶わなかった。
「─────え」
レナが伸ばした手の向こうに、セツナの手は無かった。
セツナは、何処、に────?
一呼吸遅れて、がしゃんと耳障りな音がする。
それは、トタンの壁に物が叩きつけられた音によく似ていた。
音のした方を振り向くレナ───その首に、冷たい感触。
……ナイフ?
セツナは、空き地の壁に叩きつけられてずるりと崩れ落ちた。……何が起こった…ッ!?
簡単だ。蹴り飛ばされたのだ……依頼をしてきた、男の一人に。
セツナを蹴った男はレナの首筋にナイフの刃を当てて動きを制しながら、「おい」と声を掛ける。それを合図に、後ろに控えていた二人の男達がセツナを囲った。見下ろされるセツナ。その身体に震えが走る────。
レナがセツナ、と叫んだ。駆け寄ろうとするが、首元のナイフがそれを許さない。とんとんとナイフを首に当てたり離したりを繰り返しながら、男は嗤う。
「くひひッ……依頼は受けられないらしいが、だからと云って俺の目的にゃ…な〜んにも関係無いね。お前がセツナを殺さねぇなら俺達で殺すだけ。ちょっと静かにしてて貰おうか嬢ちゃん。首が、飛びたく無ければな」
「…ッ!!!!」
「おい…………殺れ」
「おう」
「いや……ッ!やめ、て──────うッ!?」
セツナのその言葉を無視して、男の一人が腹部を蹴り上げた。全力の蹴りで空中に持ち上げられる細い身体。二人目の男がそれを殴りつけ、壁に再び叩きつける。げほ…ッ、とむせ返るセツナの口から、胃酸が溢れ出た。レナは苦悶に顔を歪め、それを眺める事しか出来なかった。
「あ……あぁぁあッ………!!やめ、て………ッ!!!」
「ぁ、ぐ…ッ……う、ぁあああッ……ぅぇッ………!!!!!」
「だめ、だ…め……ッやだ、だめやめて…ッ……やめ……ッ」
「やぁ〜だね、やめねぇよ……きひッ…オラとっとと殺せよ」
「分かってるって、ちったぁ待てよ気が短ぇなぁ」
「んじゃ、そろそろ獲物を使っちまいますかぁ……アニキの気が短いから」
「ひ、ッ………」
「あ、あぁ、あぁあぁああッ……やめてッ……やめてよぉッッ……!!!」
男達に慈悲など存在しない。
セツナを囲う二人の男は懐からナイフを取り出す。
やめて、やだ、やめてとレナが叫ぶ。
セツナは最早立ち上がる力すら失い、その場で絶望に目を見開く。
男の一人がナイフをセツナの腹部に差し出した─────
すっ、と。
その刃はセツナの腹部に呑み込まれた。
数秒遅れて、口から真っ赤な液体が吹き出す。
腹部に咲き誇る、真紅の薔薇。
あ、う、……と小さく哭いて、セツナは力なくその場に伏せた。
「あ、あぁぁああああぁあぁぁあああ、せ、つ─────!」
レナの絶望の声が響く。
男達は、げらげらと煩く嗤っていた。
誰しもが、セツナは一撃で事切れたと思った。
見た目からして最初から弱々しく、ナイフが腹部をあまりに容易く切り裂いたから。
……だが、セツナは息絶えてはいなかった。
生きる。生きる。生きる。
絶対に死なない。死なない。死なない。
死んでたまるか。私は、死なない。
途切れ途切れの意識を手繰り寄せて霊力の糸をぴんと張る。
神様、たすけて。どうか、たすけて。
そう願いながら、「糸」を通して外界の霊的なエネルギーを体内に少しずつ流し込みながら命を繋ぐ。意識が途切れたら終わりだ。霊力が切れたら終わりだ。だから、自分の力を細い糸にして、節約しながら、途切れさせないように繋ぐ。それはセツナにしか出来ない延命処置。……セツナがそう抵抗している事に、場の誰も気付かない。
男達は、動かなくなったセツナは完全に死んだと思って不協和音の嗤い声を上げていた。
セツナのもとへ駆け寄れないレナも、彼等がそう嗤うものだから……死んでしまったの、と絶望し────。
「あ、あぁ、あ………ッ……………………ッ。…………ゆる……さ…ない…ッ…………」
………絶望?
それも確かにあった。
けれど、レナが今抱えている感情は───────敵意。憎悪。そして、殺意だ。
両手にぐっと力を入れ、歯をぎりりと食い縛り、レナは大地に、空に、世界に、そして目の前の男達に吼えた。
「ゆる、さない………許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないッッッッ─────!!!!」
「あぁ?うるせぇなクソガキ、黙って──────」
「殺………してやる………ッッッ」
レナがそう言葉を紡いだ、その刹那。
────それは一瞬の、世界の揺らぎ。
それを感じていたのは………多分、私───セツナだけだった。
ぐら、と世界が歪んだ。
セツナが霊力を使う時に、世界はセツナの願いに応えて力を貸してくれる。
その時に感じる世界の揺らぎと、それは少し似ていた。
違うのは────それが、嘔吐したくなるような重々しい応答だったと云う事。
レナの願いに、叫びに、世界は何かしらの形で応えたんだ。
レナはそれ以上に、罵倒や怒りを表す事はしなかった。
……違う。「怒り」「憎悪」……それらの感情が、彼女から消えたのだ。
レナはふらり、と一瞬揺れると────次の瞬間には大地を踏み締めて体勢を低くし、攻撃の姿勢を取っていた。突き付けられていたナイフの存在など気にもしていないレナ。体勢を変える時にナイフが首筋に擦り、血が吹き出た。……全く動じない。
ワンテンポ遅れてナイフを突き付けていた男がレナの移動に気付くが、その反応はレナからするとあまりに遅かった。男が気付いた時には既に地をだんと蹴って飛び上がっており、その手には、彼女のナイフが────。
ざん。
レナのナイフは、男の左肩から彼の体を真っ直ぐに切り裂いた。
【あの日】のように威力不足では無い。彼女は渾身の力を持って、彼の命を奪いに掛かったのだ。
「………は、?」
何が何だか分からない、というような声色で男は目を丸くし、次いで仲間の方を見遣った。二人の仲間は絶望に目を見開きながら、一歩ずつ後退っていた。
………ぶしゅ。そこでようやく、彼の身体から血飛沫が吹き出す。
「あ…………う…そ……だ…ろ………?」
男はそう言って、現実を受け止められないとでも云うように呟いたが……次の瞬間にはぐりん…と白目を剥いて、その場に倒れた。じわり……地面に紅い水溜りが完成する。
レナは【それ】が動かなくなったと一瞥すると、残る二人の男達の方に視線を遣った。その方向に、息絶え絶えのセツナも居る……だから、レナの顔がよく見えた。
────彼女は、笑っていたのだ。
笑っていた、と云う表現は正確には正しく無い。何故なら、煌々と見開かれたレナの瞳に感情は無く、漆黒の闇を映しているだけだったからだ。ただ……その口元は、緩く弧を描いている。それは、例えるなら狂気。【発狂】────それが、最も的を得た表現だった。
ひぃッ………男の一人がそう声を漏らす。だが、声を出すべきでは無かった。その声を合図に、レナは有り得ないような速度で彼の懐へ潜り込み、顔を覗き込んだ。……そこまで接近されるまで、彼は気付かなかった。……いや、気付けなかった。それ程までに、彼女の動きが無駄が無く速かったから。
「き え て」
レナは残酷に、そう言葉を紡ぐ。感情の籠っていないその空っぽな声の直後、男がその場から消え────ばこん!と大きな音がして、壁に叩きつけられていた。
もう一人の男は唖然とする。馬鹿な……こんな華奢な少女が、大柄の男を蹴り飛ばして壁に叩きつけるだと…!?そんな馬鹿な…!!
「あ な た も」
不意に目の前から聞こえる声。しまった、油断し─────!
ばこん!!
………男達は二人揃って壁に叩きつけられ、ずるりと崩れ落ちた。
馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な……なんて力だ…ッ!!!
レナは蹴りの姿勢から足をすっと下ろす。……その足が、少し歪んでいる。あまりに強い威力で蹴ったものだから、挫いているか捻っているか…或いは折っているのだろう。だが、レナはそれにも全く動じなかった。まるで、痛覚が無いような………。
自分のナイフを右手に、先程殺した男の持っていたナイフを左手に…壁に寄りかかる二人の男を視界に入れ───レナは再びその場から消える。次の瞬間には、男達の胸を、レナの両の腕のナイフが突いていた。
……やられる、と。やめてくれ、と。嫌だ、と……。
そう嘆く時間すら、彼女は与えてくれなかった。
これが、レナの声に対して世界が応えた結果だと云うの…?
それはあまりに無慈悲で、残酷で、狂った【応え】。
朧げな意識で、そう考える。
レナからは、あの日と同じような邪気が溢れていた。
このままじゃ、レナは此方に帰って来られなくなる────
セツナの脳裏に、突如としてそんな警鐘が鳴り響いた。
止めなきゃ。
止めなきゃダメだ。
止めなきゃ………。
その強い感情が、セツナの身体をぐ…、と持ち上げた。
ゆっくりと、ゆっくりと彼女の方へ歩みを進める。
まだ、レナに自分の手を取って貰ってない。
だから、もう一度やらなきゃ。
私が、もう一度、レナを─────!
ぐずぐずと痛む腹部を押さえて、だっと地面を蹴る。
無感情のまま踵を返そうとしたレナの右手を、セツナは掴んだ。
それに気付いたレナは、振り返る。
まるで、「まだ生きているモノがあったか」とでも言うような表情で、振り返る。
だが、セツナはそれに臆さなかった。
手が震える。足が震える。意識が飛びそう。視界がちかちかする。
……それでも、何をしていいのか分からなくても、絶対にこの手は離さない。
そう決意して、レナの両の目をじっと見据える。
レナも唖然として、セツナの目を見つめた。
────少し、邪気が祓われた。
「………?」
その証拠に、レナはセツナに襲っては来なかった。
………どう云う事?私がレナに干渉した途端、レナの「気」が、鎮ま────
そこでセツナは、はたと気付く。
そうか。
そう云う事、だったのか。
自分の【気を鎮める】霊力は、こういう時の為にあったのか────。
セツナは「邪気」を祓い、「霊気」を昂めるために言葉の一つ一つに霊力を込めてレナに贈った。
「れ、な………私、は…大丈夫…だよ………」
「………」
「もう…戦わなくて…いい、んだよ……苦しまなく、て…いい…んだ、よ……」
「………、」
「『帰っておいで、レナ』─────!」
「……………!!」
レナを包んでいた邪気を、取り払うように。
レナを呑み込んでいた闇を、晴らすように。
セツナの黄金の瞳が、輝きを強め─────それを覗いていたレナの瞳に、感情が戻ってきた。
「せ……つ…な………?」
「そう……だ、よ……」
「生きて…るの……?だって、死………」
「勝手に…殺…さ、ないでよね………【表社会】に…行く、んだから……」
「生きて…る、………ッ!」
レナは、セツナがそう言ったのを聞くと、大きな瞳を潤ませた。ふらふらと安定しない両足に何とか力を込めて立っているセツナは、ふ…と笑う。
「おかえり……レナ」
「………ただいま、セツ───────」
そこまで言って、レナが顔色をさっと変えた。口元を押さえるレナ。ぽたり、とその指の隙間から、真っ赤な雫が溢れた。
「あ………ぇ………ッ、あ、あぁああ……ぅ、あ、ぐッ───!?」
───突然、レナは全身の痛みに悶えてその場に崩れ落ちた。両手両足が、よく見ればあらぬ方向へ曲がっている。ところどころ内出血しており、また別の箇所には血が滲んでいた。………これは、一体……!?
はっ、とセツナは気付く。
先程までのレナの動きは、まるで痛覚が無いかのようなものだった。関節や筋肉の可動域や出せる力を全無視したような人ならざる動き。そんな動きをすれば、身体がぐちゃぐちゃになってしまっても、可笑しくない……ッ!!!
一時的に理性と痛覚を失い、有り得ない程の戦闘能力を引き出す。
その代わりに、それが収まると反動が起こる。
そんな事例、聞いた事が無い………けれど、どうやら世界がレナに対して贈った【応え】は、そう云うものらしかった。
レナが身体を捩る度にぐちゃ、と湿った音がした。痛くて痛くて、少しでも楽な体勢を取ろうと身体を縮めているのに…その動きでまた耐え難い痛みを感じる……レナは悲鳴を上げながらそれに耐えていたが……あまりの痛みにとうとう、意識を手放したようだった。
駆け寄ろうとするセツナ────だが、セツナも致命傷だ。
それなのに、先程無理に身体を動かしたツケが来たらしい。レナの方に足を進めようとして、腹部の傷が開いた。う、と悲鳴を上げ……セツナもまた、意識を手放す。
三月十五日、午後七時。
満身創痍の二人を、夜が呑み込む─────。