第1夜 2節
文字数 3,768文字
そんなわけで、被験体の受け渡しは人気の少ない郊外の山道で行う事になっていた。車で数十分揺られて到着した頃には、日は地平線の向こうに体を埋めていて、黄金と朱色が空を染めている。
……そこには、既に向こうの送迎の車が止まっていた。車の運転手──恐らく研究員───は此方に気付くと車から降り、ぺこりとお辞儀をする。釣られて雪音と所長もお辞儀すると、向こうの研究員は「彼が、雪音くんですか?」と尋ねる。
「──ええ、そうです。すみません、遅くなってしまって…。」
「いえいえ大丈夫ですよ。夜の方が、出歩くのには何かと都合が良いですから。御宅だってそうでしょう?」
「あ、あはは……そう、ですね……」
所長が受け答えをすると、目の前の研究員は「夜の方が都合が良い」と言った。…それは、自分達の行う実験が反社会的なものであり、陽の当たる世界では都合が悪いものだ、と言っているようなものだった。所長は苦笑いをしながら、それでも否定はしない。
研究員は腕時計をちらりと見て、いよいよ本命の話を切り出す。
「……長話もなんですから、やる事を済ませましょうか。急かすようで申し訳ありませんが、あまり時間が取れないもので…」
「ああお時間が…!いや…此方こそ申し訳ありません。……それじゃあ雪音……行っておいで。…体調には気をつけるんだよ。それから、具合が悪くなったら周りの人に直ぐ言う事。友達がもし出来たら…あまり迷惑を掛けないようにね。」
「……はい。」
「それじゃあ行こうか、雪音くん。後ろの座席に。」
研究員はそう言うと自分の車に乗り込んだ。雪音は別れを少し惜しみながら……それでも、心配をかけまいと笑顔を作って所長にお辞儀をした。
「所長。……今まで、有難うございました。」
「雪音…。嗚呼、此方こそ有難う。元気で。」
「所長こそ、お元気で。」
……長くは語らなかった。雪音は後方座席に座り、シートベルトを着けた。車内用の芳香剤がツンと鼻をつく。そこは、雪音の知らない完全なアウェイの世界。「此処から先、自分は何も知らない」という不安感が胸を蝕んでゆく。それでも、これが運命だと云うなら───受け入れていくしか無いのだ。永遠に不変な事など、何一つ無いのだから。
無音の車内。双方が沈黙に慣れ、高速道路に入った頃、研究員は雪音に話し掛けた。
「……雪音くんには、どんな力があるんだろうねぇ…」
「…そんなに、すごい力は無いです。ちょっと、戦うのが得意なだけで…」
「はは、十分凄いよ。将来は戦闘部隊の隊長かな」
「戦闘……。」
そう言いながら雪音はぼんやりと流れる窓の外を眺める。
『…ゆくゆくは、災害救助なんかに役立つ人材になってくれたら、そう思っているよ。君を兵器だなんて呼ばないし呼ばせやしないさ……僕達がついている限りはね───』
…所長の言葉が脳をよぎる。ひょっとしたら、自分は、戦闘能力を買われて兵器にされてしまうかもしれない。だって、「兵器だなんて呼ばせない」と約束してくれた人達は、これからもう居ないのだから。
そんな不安を抱えながら数十分車を走らせると、大きな建物の前に辿り着いた。いかにもお金をかけていそうなガラス窓に、清潔感の漂う真っ白な外壁。屋根はドーム状になっている。……これが、ルブルム製薬。そして、能力開発研究所…。
前方から「こっちだよ」と言う研究員の声が聞こえた。…彼が立っているのは大きな正面玄関ではなく、非常用の出口のような小ぢんまりとした造りの鉄の扉だった。……やはり、自分が通される研究所は【正面からは行けない場所】なのだ。そう悟りながらも、雪音は彼の後を追う。
正面玄関の向こうは来客をもてなす為の広々としたエントランスホールがあるのだろうが、雪音が通った玄関の向こうは、受付…それから、研究員達がデータ作業や見張りをしている管理室が一緒になった簡素なフロアだった。雪音を連れてきた研究員が入ってきた扉の施錠をしている間に、受付の女性が声を掛けてくる。
「こんにちは。お客様でしょうか。此方の受付は薬品の受け渡しを主にする業務用の場所でして、会社のメインエントランスは向こうの───」
「ああいや、彼は僕が連れて来た者でして。これ、此処のカードです。」
「あ、そうでしたか…申し訳ございません。彼は……治験の仕事のバイト生か何かですか?」
「あはは、まぁ…そんなところです。」
「最近治験のバイト生、多いですね…私はただの受付係なので詳しくありませんが、新薬の開発でもしているのでしょうか……それにしても、彼…治験を受けるにしては些か幼いのでは…いえ、素人質問で申し訳ありませんが」
「あーー……えーっと…」
…どうやら、この受付の女性は【裏側】には一切関与していない【製薬会社】の社員のようだった。人体実験の事は勿論、その被験体の事も、【裏側】の事も何も言えない。研究員は目を泳がせながら必死に言い訳を探している。
「───それは、私の指示だよ。」
そう言いながら、管理室の奥から赤茶の髪に赤黒い瞳を持つ、黒いワイシャツ、赤いネクタイ、そして純白の白衣にこれまた白い手袋を身につけた男性が現れる。「研究長…!」と研究員が会釈をした。…どうやら、彼が此処を取り仕切っているトップらしい。
「しょ、所長……。そうでしたか、所長のご指示で…」
「ここだけの話だが…うん、君の言う通り、南米で流行っている流行病の新型ワクチンの研究をしていてね。彼方の地域では大人も感染するが……子供に多く感染していて多くの命が奪われているんだ。だから、子供の体に合った治療薬を開発しなくてはいけないわけで…。話が分かる、生活が苦しい子供達に協力してもらって、生活を援助する代わりにこうして治験を受けてもらっているんだよ」
「成る程…。」
「だが、君もただの受付係だろう?そんなに上の研究に勝手に興味を持ってはいけないよ……研究内容は守秘義務があるからね。あまり噂が流れるのは良い事では無いんだ。研究員は研究員の仕事を…警備員は警備員の仕事を…そして君は、受付の仕事を誠意を持ってすれば良い。他の部署に口出しをするのは、余り褒められた事ではないからね」
「す……すみません……。」
「いいんだ、人は間違うものだよ…次から気を付けてくれ。」
「はい……」
上手く受付の女性をいなしたところで、彼女は他の人に呼ばれて管理室の奥に姿を引っ込めた。それを見送ってから研究長は此方に目を向ける。一度頭から爪先までを見られ、不意に緊張してしまう。だが、それを見た研究長は優しく笑い、握手を求めてきた。躊躇いながらも握手に応える雪音。
「…ええと、君が雪音…だね。初めまして。私は此処の所長…そして、【クレナイ】の研究長をしている郷原だ。緊張しなくてもいいよ……君の新生活はちゃんとサポートするからね」
「雪音、です……」
「私も基本【クレナイ】の研究長室に居るから、分からない事や不安な事があれば見回りの研究員か……若しくは直接私に言ってくれたら即時対応するよ。安心してくれ」
「は…はい…」
そう受け応えしたところで、雪音はひとつ疑問を抱いた。……さっきから彼が言っている、【クレナイ】とは何か…という事だ。何かの隠語のように思える。
そうひとり言葉の裏で思案していたのは、研究長にはバレバレらしかった。…流石数多の被験体達を取り纏める研究長、と云ったところだろうか。まるで、心でも読んでいるかのような…。
「…何か気になる事でもあるのかな?さっきから、視線が彷徨っているよ」
「えっ……いや、そんな大した事では無いんですけど…」
「気にしないから言ってみなさい」
「えと…その、【クレナイ】って、何なのかな……って……」
「…ああ、そうか…説明がまだだったね。私達が今から向かう実験区画は【能力開発研究所】だが、それでは長いだろう?だから【クレナイ】と呼ばれているんだ。コードネームの一種、みたいなものだよ」
クレナイ……紅。
それはこの真っ白な研究所からは想像できない色だったので、雪音は少し混乱した。何故【ホワイト】や【グレー】では無く【クレナイ】なのだろうか…と。研究長はふふ、と笑いながら続ける。
「さてはその顔、【ホワイト】などでは無くて【クレナイ】なのは何故か……と思っているね?幾つか理由があるんだが……そうだね、此処を卒業する被験体には、真っ赤な薔薇が贈られるから…という理由が1番ロマンティックで印象がいいかな。これは此処のしきたりでね……そういう事で、【真紅の薔薇の実験室】から【クレナイ】になったんだよ」
……成る程。確かに随分とロマンティックだ…。
そう納得したところで、研究員が腕時計を確認し、「研究長、とりあえず実験区画に行きましょう」と声を掛ける。そうだったね…と研究長もまた腕時計を見て、それから雪音に背を向けた。
「着いてきなさい。居住区域に案内するよ。」
──そう言葉を掛けて。