第3夜 12節
文字数 3,042文字
九月に入ると途端に蝉達は鳴くのをやめた。それでもじりじりと強い日差しが半袖の制服から出ている腕や首を焼いて暑い。レナ達は今日もお喋りに花を咲かせながら下校していた。……今日は人権集会があった。いじめは駄目です……と云うよくある話に加え、LGBTQや同和問題についても触れていた。下校中の話題は、概ねその人権集会に関する事だった。
「人権人権って言いますけど、うちの学校でそれを言う?って話ですよ。内部の問題から目を背けすぎです!」
鈴香達の事を思い出しながら、ユキがそう愚痴ると、レナがあはは…と苦笑いして続いた。
「保護者って怖いからねぇ……学校もお金貰ってるわけだし、逆らうのが怖い気持ちも分かるなぁ……」
「それでも見て見ぬふりは良くないですよ…もう、訴える気を無くしてしまいましたけど」
「……でも、私は意地悪をしてくる子達の事も信じたいな。きっと、心がとてもざわざわしてて、そういう手段を使うしかストレスを吐き出す事が出来ない、知らないんだと思う。ほら、今日の集会でも言ってたけど…いじめっ子だって問題を抱えてる事が多いみたいだし。……『この世界』では、無意味に人を傷付けるような人達なんて居ないって、そう信じたい。」
「レナ……。…そうだね、私もそう思いたい。宮下さん達がいじめでしかストレスを解消出来ないなら……別の解消法が見つかる事を祈りたいね」
そう優しく語るレナを、セツナが肯定する。
………二人は、どこまでも優しい。ユキは、被害者である自分の事で精一杯で「どうして私ばかりが」と嘆く事しか出来なかったのに……目の前の二人は、自分達に嫌がらせをしてくるいじめっ子ですらも信じたいと思っているのだ。
「……やっぱり二人は、強いです。そして寛容…」
「そ、そうかな……私だって『こんにゃろー!言いたい放題言ってくれちゃってー!』って思ったりするよ?というか今日も思った」
そう言いながらシュッシュッ、と空をパンチしてみせるレナ。それを見て、セツナとユキはくすりと笑う。……そうこう話しているうちに、道が分岐している所に辿り着いた。
レナとセツナの家は左側の道で、ユキは右側だ。つまり、此処で今日はお別れと云う事になる。またね、と手を振ってユキが右側の道を歩み始める。レナとセツナは彼女の姿が見えなくなるまで見送って……私達も帰ろうか、と左側の道に踏み出した。
道の向こうから、黒いワイシャツにこれまた黒い帽子、黒いコートのような上着を羽織った男性が歩いてくる。普段は通りすがる人など大して意識しないが……九月にしては厚着すぎるだろう、と云う事とその格好の不審さから、二人とも少し彼の事を意識する。
すれ違う瞬間、何気なく二人は「こんにちは」と挨拶をし、向こうもまた軽く会釈をしながら「こんにちは」と言い─────
彼が通り過ぎる瞬間、レナの首にちくりとした痛みが走った。
それはまるで、注射器で何かを刺されたような────。
ばっ、とレナが突然振り返るので、セツナは驚いて立ち止まる。そして、二人は見てしまう────目の前の男性が、右ポケットに注射器を隠した瞬間を。
「───あの、今何をしたんですか」
レナが警戒心を強めながら男を呼び止めると、帽子を深く被った男は振り返って答えた。
「何って……何もしていないよ?」
「じゃあその注射器は何ですか。……私に、何か注射しましたよね」
「ああ、気付いていたか……なら仕方ない。……そして、君にはこれは効かないんだね…珍しい」
「……ッ、何を、したんですかッ…!」
言葉尻を強くしてそう問いかけるレナ。男は怖い怖いとでも言うように肩をすくめると───注射器を二人の前に出して答えた。……口元が、嗤っている。
「少し、気絶させるための薬をね。気絶したらもう一人……そう、紫の髪の君にもしようと思っていたんだが、君…随分と強い身体を持っているね、興味深い。……毒に耐性でもあるのかな?」
「……気絶させて、どうするつもり、ですか」
「実験体として【クレナイ】に連れて行こう、とね」
「【クレナイ】……?」
男が何を言っているのか、レナとセツナにはさっぱりだった。……だが、麻酔のようなもので眠らせてどこかへ連れて行こうというなら、それは世間一般的に言う拉致だ。つまり目の前の男は───自分達の、敵!
彼はいつ攻めてくるか分からない……レナは一層警戒を強めると、セツナを庇うように歩み出て戦闘体勢を取る。「へぇ……かっこいいね。折角見つけた実験体候補だ、私も力づくで手に入れてみせよう」と男は言うと、彼もまた戦闘体勢を取り────
次の瞬間、男はレナの目の前に居た。───速いッ!!
顔面に向かって飛んでくる拳。それを間一髪で屈んで避けると、だんと地面を蹴って低い姿勢のまま男の背後に回り込む。そして、弁慶の泣き所を狙って蹴りを入れる。
男はそれに気付くと跳び上がって避け、逆にレナに蹴りをお見舞いする。まさか避けられると思っていなかったレナは革の固いブーツの蹴りを食らってしまう…が、受け身をきちんと取って最小のダメージでやり過ごす。
………この男、強い……!
距離が離れて動向を伺う両者。
男は顎に手を遣ってふむ……と考えると、「君を相手にするのは、面倒らしい」と告げた。………諦めてくれるのだろうか、そう少し気を緩めた、その刹那。
「───だが、後ろの君はどうだろう?」
「───!?」
「!!セツナッ!!!!」
男は、一瞬で距離を詰め、レナとセツナの間に割って入っていた。
男はセツナの眼前に握った手を突き出し、それをぱっと開く───すると、セツナはその場に倒れ込んでしまった。
………こいつ、セツナを……ッ!!
「安心しなさい、気絶しているだ────」
そう言いかけた男の身体が、急に後ろに引っ張られる。……引っ張られる?違う───レナがセツナと男の間に入って腹部を蹴り飛ばしたのだ。その移動速度は、そして攻撃威力は、先程とは比べ物にならない───!
レナの目は怒りに燃えていた。
セツナに手を出すなんて、許せない。
絶対に、絶対に許せない。
こいつは、私の敵。
例え殺める必要があるとしても───セツナに、私達に近付けさせてはならない存在だッッ!!!!
「……ッ、はは……やるね」
「セツナに近付くな…ッ、私達に、近付くなッ!!!」
「君、その目───ああ、成る程……君が【サツキ】の言っていた………はは、はははッ、ようやく……ようやく見つけたッ……!」
男は急にそう笑い始める。……この男に対する不審感が、どんどん高まっていく。
男はひとしきり笑うと、「いや、すまない」と言って切り出した。
「今日のところは帰るよ。だが───私は諦めない。君達はいずれ私の元に来るだろう。ふふ……その時を、楽しみにしているよ」
そう言い残すと、男は踵を返してレナ達の家とは逆方向に歩いて行った。
………何、だったの……?
いや、そんな事より……彼は「今日のところは」と言った。それはつまり…今後また、襲ってくる危険性があると云う事だ。これから、身の回りに警戒する必要がありそう。…額に冷や汗が伝う。
……今はそれどころでは無いな。セツナを起こさなきゃ…!
レナは熱いコンクリートに倒れたセツナに駆け寄ると、声を掛けながら身体を揺すった。
「セツナッ!セツナ、ねぇセツナ、起きて───!」
……運命は、歪み始める。狂い始める。
そしてその運命に巻き込まれるのは───レナとセツナだけ、では無かった。