第2夜 5節
文字数 1,726文字
時計が無いので分からないが、相応の時間が経過したように思う。浴槽の中のドライアイスはその形を小さく変えながら、煙を宙に漂わせている。
………二酸化炭素の濃度が上がってきているのを感じる。よく考えてみれば、ただでさえ呼吸で酸素を空気中から減らしているのに、その上ドライアイスの昇華でこの空間の二酸化炭素を増やしていれば酸欠と二酸化炭素中毒を同時に起こす事は分かりきっていた筈だ。既にぐわんぐわんと揺れ始めている脳で「やっぱり拒絶すべきだったのだろうか」などと考え……しかしその思考をコンマ一秒で「そんな事は無い」と洗脳された理性が振り払う。拒絶したところで、もう既に密室に閉じ込める前提で準備をしていた母は止められなかっただろう。反抗してはいけないと分からせるために余分に暴力を振るわれる事は目に見えている。今のように大人しく言う事を聞くのが最善だった。
………本当に?本当に最善?
だって、このままじゃ私、窒息して死んでしまうじゃないか……。
私は死にたいわけではない。
寧ろ、どちらかというなら「死にたくない」「生きたい」と思う。もっと言えば、痛いのも苦しいのも怖いのも嫌いだ。叶うなら、死ぬかもしれないという恐怖から逃れて、痛みや苦しみとは無縁の世界で、誰かに怯える事なく生きていたい。……でも、そんなのは夢物語だ。私の運命は、この家に女児として生を受けた瞬間から…そんな未来は訪れないと決定づけられているのだから。
もし、両親が自分に暴力を振るうのを躱しきって逆にぎゃふんと言わせられたら。その後を恐れず嫌だと反抗出来たら。この家を抜け出して生きていけたら……。それらは全て、「強さ」と云うものを持ち合わせている者だけが選べる選択。私は、あまりに非力だ。あまりに弱くて惨めだ。親に反抗する勇気すら、持ち合わせていないのだから……。
………駄目だ、視界が揺れる。
密閉空間の中の空気が膨張しているからか、それとも酸欠で全身に酸素が巡らなくなってきているからか、或いは単純に今が霜月だからか……それらのうちどれが真実なのかは定かで無いが、身体は耐え難い寒さを覚え始めていた。手先や足先は既に氷のように冷たい。揉んで擦って温めようとするものの、力が上手く入らず、温める事は叶わなかった。
「セツナ」と云う少女の終わりが、近付いてきている。
私は、こんなところで終わるのだろうか。
こんな惨めな最期で、何も為せないままで、不幸なままで、子供のままで、呆気なく終わりを迎えるのだろうか。
………死にたく、ないよ。
生きて、いたいよ……。
──── 神様の力を借りてみたらいいじゃない、できるものならね。
……母の嘲る声がリフレインする。
神様、か……。
御光の一族の教えだからとかそういうのを抜きにして、セツナは少なからず神や精霊、妖などと云った超常の存在を信じていた。それは単純に、セツナが霊力を持っていて超自然と共鳴し、霊気を操る事が出来るからと云う理由が大きい。だが、そうでなくとも、自然の秘める力というものを信じたいのだ。それらくらいしか、セツナが縋れるものが存在しないのだから───。
すぅ、と残り僅かな酸素を肺いっぱいに吸い込む。
それは少しカビ臭くて、じめじめと湿っていた。
吸い込んだ空気の中の「気」を身体に取り入れ、その「気」を肺から五臓六腑、そして末梢神経の隅々にまで循環させる。
……この瞬間、セツナはこの浴室の空気と一体になった。
ゆっくりと閉じた瞳を開く。その瞳は、水平線の彼方に沈む夕陽のような、眩い程の黄金で───。
そこから、自分自身の「気」──「霊力」を逆流させて空気中に溶かす。その「気」は有り体に云えば「酸素」に変換され、再びセツナの身体に取り込まれる。その取り込んだ「気」をまた空気中に送り出し……。
それは、セツナだからこそできる永久機関。
「空気」という自然現象が存在しない真空であれば出来なかったかもしれないが、此処には幸運な事に大気が存在する。そのため、このような技も可能なのだ。
揺れる視界は、痛む脳は、酸素が身体に満たされてくると徐々に和らいでいった。時間が、ゆっくりと過ぎてゆく。母が設定した「半日」という条件まで、あと数時間………。