第八話 消せない思い

文字数 940文字

 光陽の元から逃げ出した翠は、香涼殿の廊下を歩いていた。何故か自室が遠く感じる。早く部屋につきたいのに。長い道のりは、嫌でも翠に先ほどの出来事を思い返させる。



 本当はあんなに近づくつもりはなかった。今宵は主上が来ているのだ。侍女として、彼がいると分かれば皇后は従姉に戻り、平静を失う。二人の邪魔をされないように、注意をするだけのつもりだった。



 それなのに、流されてしまった――



 自分の愚かさを、これほど呪ったことはない。あの時、不用意に近づかなければこんなことにはならなかった。それに、またあの言葉を聞かずに済んだかもしれない。



 分かっていた。彼が翠のことを幼少期と同じ、童にしか思えないことは。何度も、何度も繰り返し言われていたことだ。童としか思えないから、身体に触れることに抵抗がないことも。けれど、ああして触れられる度、いつかは自分を見てくれるかもしれないと期待していたのも事実。そんな淡い期待は何度産まれて、何度壊されていっただろう。



(馬鹿だ……あの人に期待しても無駄なのに)



 頬には涙が一筋、流れていく。いっそ、嫌いになれたらどんなに楽だっただろう。幼少期のあの時に、彼を軽蔑出来ていたら良かった。なのに、翠の心はそれを許してくれない。何度心に傷を作っても、彼を嫌いになれない。



「こんな気持ち、知らなければよかった……」



 瞳からポロポロと涙が零れてくる。止めようと思っても、自分の意思ではどうしようもないらしい。翠はその場にしゃがみ込み、顔を覆う。今声を上げれば、従姉が気づいてしまう。もしかしたら、眠っている同僚も起こしてしまうかもしれない。理性でなんとか声は押し留めることが出来たが、翠はその場に泣き崩れた。



 どれくらい、そうしていただろう――



 濁流のように流れていた涙も、気付けば枯れ果てていた。まだ少し湿っぽい目元を手ぬぐいで拭う。おそらく、目は腫れているだろう。明日、従姉に会えば気付かれ、心配をかけてしまうかもしれない。同僚に頼んで非番にしてもらおう。感情を吐き出せば、冷静な考えが戻ってきた。そのことに安堵しながら、翠は立ち上がる。そして再び、自室に向かって歩き始めた。


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登場人物紹介

翠(すい):17歳の鵺。力を一部しか使えず、自分に自信がない為、身分や立場にこだわるようになった。身の丈にあった生活をすることが夢であったが、大好きな従姉に請われ、従姉を支える為に出仕した。現在、皇后付き兼帝付きの侍女をしている。幼少期に助けてもらって以来、光陽に恋心を抱いているが、大人になってからは距離を取るようになった。

光陽(こうよう):22歳の鬼と妖狐のハーフ。仕事には真面目であり、現在近衛左中将の地位にある。帝とは乳兄弟で、帝が心を許せる数少ない相手。天然たらしな為、宮中にいる時は周りに女性がいることが多い。が、本人は恋愛に疎く、友情の恋愛の違いが分かっていない。狐の性質が翠に向かいやすく、翠をからかって遊ぶことが好き。皇后からは嫌われているが、自身も皇后を苦手にしている。

有比良(ありひら):銀鬼国の今上帝。この国で最強の鬼で22歳。光陽とは乳兄弟で光陽を信頼している。クールで寡黙だが皇后を溺愛している。後宮には約100人の妃がいる為、光陽からは「ムッツリスケベ」と呼ばれている。

香子(かおるこ):鵺で翠の従姉。皇后として有比良を支える。翠のことになると猪突猛進になりがちで、はっきりしない光陽が嫌い。隙あれば光陽を呪い殺そうとする。

水月(みづき):翠の幼なじみの鵺。鵺としての力は弱いが、配達屋としての地位を確立。貴族からの信頼も厚い。翠が好きだが本人にはこれっぽっちも伝わっていない。

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