第三話 過去の過ち
文字数 1,636文字
それは、遠い昔に遡る――
幼い頃の翠は、力のことで他家の子ども達から虐げられていた。
『やーい! 出来損ないっ!』
思い出すだけでも身体が震えるような、数々の心無い言葉を浴びせられた。毎日、毎日、泣いて暮らしていた。泣くだけの可愛げがその頃はあったのだ。そんな翠を助け、自室にかくまってくれたのが光陽の母、寿々音 だった。帝の乳母でもある彼女はどこか従姉に似た雰囲気を持っており、翠も懐いていた。けれど、そこには光陽もいて……
『ほぉら、取ってごらん?』
訪れる度に、光陽は翠が飛び跳ねてようやく届くという絶妙な位置にお菓子をぶら下げた。そのお菓子というのが、上等な飴細工で、とても煌びやかで、幼い翠は誘惑に勝てなかった。お菓子を見せれば毎日ぴょんぴょん飛びついてくる翠が面白かったのだろう。狐の気質もあってか、翠は格好の餌食になっていた。
そして、事件が起きた――
あの日は確か、光陽の元服の儀が行われていた。本来親族ではない翠はその場にいることが許されない立場だったが、寿々音にどうしてもと請われ、少しならと、宴が行われる夜に訪れた記憶がある。従姉も招かれているから安心していた部分もあるのだろう。広間ではなく彼の部屋に通されたことを疑問にも思わなかった。
『やっと来た。遅い』
ついて早々、艶っぽい声が文句を垂れる。その呼気からは、ほんのりと酒の香りが漂う。どうも酒に酔っているらしい。頭の中では、警鐘が鳴り響いていた。このままここにいるとよからぬことが起こる。早口で祝辞を述べ、去ろうとする。
『元服、おめでとうございます。それでは、お邪魔をしては悪いので』
『待った』
腕を引かれ、昔よりもたくましくなった胸板に顔を押し付けられる。全身の血が顔に集まっていき、心臓はうるさい程、その存在を主張する。この頃には、男女の違いやそれに付随する諸々の知識を得ており、自分のこの気持ちが何なのか自覚していた。自覚していたからこそ、この状況を受け入れることが出来なかった。これは酔っ払いの戯れだと自分に言い聞かせる。そんな翠をよそに、目の前の麗人は翠の耳元で囁く。
『最近翠冷たいよな。全然屋敷にも来てくれないし……何で?』
『だって……もう子どもではないから。夫婦でもないのに殿方の家に行くのははしたないって言われました』
『そんなの関係ない。俺は昔のように翠と遊びたい』
『もう、それが許される年齢じゃないです』
『……そんなに年齢や性別にこだわるなら』
ドンッという鈍い音と同時に、身体は壁に押し付けられていた。麗しい顔が、その瞳に飢えた獣のような輝きを湛え、近づいてくる。
『大人の遊びを教えてやるよ』
何が起こっているのか、分からなかった――
気付けば唇を塞がれ、ねっとりとした感覚が、翠の口内を犯していく。押しのけようにも、翠の力ではびくともしない。男女の差を、嫌というほど実感する。この時ほど、自分が馬鹿だと感じたことはなかった。恐怖に顔を歪ませ、両眼から大粒の涙を零した、その時だった。
『翠っ! ちょっとそこの餓鬼何してるのよ!』
翠がいないことに気付いた従姉が、従者を伴い、部屋に来てくれた。腕の力が緩んだ隙に逃げ、従姉に抱き着き、そこで意識を失った。その後、その場で何が起こったかは、誰に聞いても教えてもらえなかったし、光陽も翠に今までと変わらぬ接し方をしていた。まるで、あの事件はなかったかのように。その方が翠としてもよかった。あんな事件があったのに、不思議と翠の気持ちは変わらなかった。ただ、悲しかった。酒の勢いではなく、ちゃんと気持ちが通った上で、してほしかった。だが、あれは酔っ払いの戯れ。そんな物を気にしても仕方がない。そう思うようにし、前以上に男女の距離感という物を意識し行動するようにした。
幼い頃の翠は、力のことで他家の子ども達から虐げられていた。
『やーい! 出来損ないっ!』
思い出すだけでも身体が震えるような、数々の心無い言葉を浴びせられた。毎日、毎日、泣いて暮らしていた。泣くだけの可愛げがその頃はあったのだ。そんな翠を助け、自室にかくまってくれたのが光陽の母、
『ほぉら、取ってごらん?』
訪れる度に、光陽は翠が飛び跳ねてようやく届くという絶妙な位置にお菓子をぶら下げた。そのお菓子というのが、上等な飴細工で、とても煌びやかで、幼い翠は誘惑に勝てなかった。お菓子を見せれば毎日ぴょんぴょん飛びついてくる翠が面白かったのだろう。狐の気質もあってか、翠は格好の餌食になっていた。
そして、事件が起きた――
あの日は確か、光陽の元服の儀が行われていた。本来親族ではない翠はその場にいることが許されない立場だったが、寿々音にどうしてもと請われ、少しならと、宴が行われる夜に訪れた記憶がある。従姉も招かれているから安心していた部分もあるのだろう。広間ではなく彼の部屋に通されたことを疑問にも思わなかった。
『やっと来た。遅い』
ついて早々、艶っぽい声が文句を垂れる。その呼気からは、ほんのりと酒の香りが漂う。どうも酒に酔っているらしい。頭の中では、警鐘が鳴り響いていた。このままここにいるとよからぬことが起こる。早口で祝辞を述べ、去ろうとする。
『元服、おめでとうございます。それでは、お邪魔をしては悪いので』
『待った』
腕を引かれ、昔よりもたくましくなった胸板に顔を押し付けられる。全身の血が顔に集まっていき、心臓はうるさい程、その存在を主張する。この頃には、男女の違いやそれに付随する諸々の知識を得ており、自分のこの気持ちが何なのか自覚していた。自覚していたからこそ、この状況を受け入れることが出来なかった。これは酔っ払いの戯れだと自分に言い聞かせる。そんな翠をよそに、目の前の麗人は翠の耳元で囁く。
『最近翠冷たいよな。全然屋敷にも来てくれないし……何で?』
『だって……もう子どもではないから。夫婦でもないのに殿方の家に行くのははしたないって言われました』
『そんなの関係ない。俺は昔のように翠と遊びたい』
『もう、それが許される年齢じゃないです』
『……そんなに年齢や性別にこだわるなら』
ドンッという鈍い音と同時に、身体は壁に押し付けられていた。麗しい顔が、その瞳に飢えた獣のような輝きを湛え、近づいてくる。
『大人の遊びを教えてやるよ』
何が起こっているのか、分からなかった――
気付けば唇を塞がれ、ねっとりとした感覚が、翠の口内を犯していく。押しのけようにも、翠の力ではびくともしない。男女の差を、嫌というほど実感する。この時ほど、自分が馬鹿だと感じたことはなかった。恐怖に顔を歪ませ、両眼から大粒の涙を零した、その時だった。
『翠っ! ちょっとそこの餓鬼何してるのよ!』
翠がいないことに気付いた従姉が、従者を伴い、部屋に来てくれた。腕の力が緩んだ隙に逃げ、従姉に抱き着き、そこで意識を失った。その後、その場で何が起こったかは、誰に聞いても教えてもらえなかったし、光陽も翠に今までと変わらぬ接し方をしていた。まるで、あの事件はなかったかのように。その方が翠としてもよかった。あんな事件があったのに、不思議と翠の気持ちは変わらなかった。ただ、悲しかった。酒の勢いではなく、ちゃんと気持ちが通った上で、してほしかった。だが、あれは酔っ払いの戯れ。そんな物を気にしても仕方がない。そう思うようにし、前以上に男女の距離感という物を意識し行動するようにした。