第五十四話 八つ当たり
文字数 1,659文字
光陽が立ち去ってから、二時間程が経過した。しかし、香涼殿の空気は未だに緊張感に包まれていた。いつもは花のような笑顔を浮かべている部屋の主が、厳しい眼差しを浮かべたままだからだ。張りつめた空気に当てられた皇后付きの侍女達も無言で黙々と仕事をするものだから、より空気を重くしていた。
居室の中、苛立ちを隠せない皇后は無言で扇を開けては閉める動作を繰り返していた。普段であれば翠が宥めれば落ち着きを取り戻すのだが、あいにくまだ目覚めていない。そうなると、この皇后を静められるのは夫である帝だけなのだが、左中将に伝言を託してからまだ来訪の気配は見えない。そもそも帝もお忙しい身分な為、いつ来るかは誰にも分からないのだ。もう誰にもどうすることも出来ない状態だった。
「皇后様」
他の侍女がこの場から離れる為に仕事に向かった中、皇后の側に留まっていた侍女長が声をかける。
「ご機嫌を直してくださいとは申しません。けれど、私めでよろしければお思いになっていることをおっしゃってください。黙っておいででは、気持ちも晴れないでしょう?」
扇の手を止め、侍女長の方を振り返る。侍女長は母のような柔らかな笑みでこちらを見つめていた。屋敷からここまで一緒についてきてくれた彼女には、全てお見通しのようだった。侍女長の言葉に甘え、皇后は思いの丈をぶつける。
「あの左中将はなんであんなに意気地なしなのっ! ほんっと理解できないっ! 翠の気持ちは分かっていても、それを認めたくないのよあのお子ちゃまはっ!」
言葉に出さずとも、その佇まいから光陽の心の内は伝わってきていた。だからこそ、なお腹立たしい。普段はあれだけ女の子達に歯が浮くような言葉を投げかけているのに、どうしてそこは言えないのだと思う。左中将ともあろう人がこんなに情けなくていいのかと、帝に投げかけたいくらいだった。けれど、皇后にも分かっていた。光陽が何を守りたくてこんなことをしているのか。
「あの臆病者は翠との関係が壊れるのを避けているのよっ! きっと翠の気持ちだけじゃなくて、自分の気持ちからも目を背けているわ! 自分と向き合いたくないから兄弟ごっこをしているのよ!」
言葉に出すと更に怒りが込み上げてくる。手に持った扇を投げたくなる衝動を必死に堪え、強く握りしめる。どうもこの怒りは話した所で解消できるものではないらしい。そんな皇后に対して、黙って聞き役に徹していた侍女長は一つの人形を差し出した。
「皇后様、どうぞ」
「これは?」
「巷で流行っている呪いの藁人形だそうです。憎い相手の名前を書いて人形に貼り、釘で打ち付けると相手に呪いがかかると言われていますが……皇后様の場合人形を打つだけでも気持ちが晴れるのではと思い、今朝水月からもらいました」
侍女長から藁人形を受け取り、まじまじと眺めた。次第にそれが光陽に見えてきて、どこに眠っていたのか更に怒りが込み上げてくる。そうなってからは、言葉はいらなかった。侍女長がそっと差し出した釘と金槌を受け取り、壁に向かって藁人形を打ち付けた。
カンッ……カンッ……
その音だけが部屋に響き渡る。単純動作を繰り返しているうちに、少しずつ、皇后の心は静まってきた。半分ほど打ち付けた所で疲れを感じ打ち付けるのを止めたが、先ほどまでのモヤモヤがどこかにいったようだった。
「これ……いいわ……ありがとうっ!」
そう言って皇后は侍女長に抱き着く。後ろに仰け反りながら、侍女長は皇后を受け止めた。背中に手をやると、子どもをあやすかのようにポンポンと背中を撫でる。
「いえ。お役に立てたのであれば光栄ですわ」
張りつめていた空気が解れていき、和やかな空気が部屋に広がっていった。この日を境に、怒りを感じた際には釘を打ち付ける音が皇后の部屋から聞こえるようになり、周囲の侍女を震え上がらせることになったのだった。
居室の中、苛立ちを隠せない皇后は無言で扇を開けては閉める動作を繰り返していた。普段であれば翠が宥めれば落ち着きを取り戻すのだが、あいにくまだ目覚めていない。そうなると、この皇后を静められるのは夫である帝だけなのだが、左中将に伝言を託してからまだ来訪の気配は見えない。そもそも帝もお忙しい身分な為、いつ来るかは誰にも分からないのだ。もう誰にもどうすることも出来ない状態だった。
「皇后様」
他の侍女がこの場から離れる為に仕事に向かった中、皇后の側に留まっていた侍女長が声をかける。
「ご機嫌を直してくださいとは申しません。けれど、私めでよろしければお思いになっていることをおっしゃってください。黙っておいででは、気持ちも晴れないでしょう?」
扇の手を止め、侍女長の方を振り返る。侍女長は母のような柔らかな笑みでこちらを見つめていた。屋敷からここまで一緒についてきてくれた彼女には、全てお見通しのようだった。侍女長の言葉に甘え、皇后は思いの丈をぶつける。
「あの左中将はなんであんなに意気地なしなのっ! ほんっと理解できないっ! 翠の気持ちは分かっていても、それを認めたくないのよあのお子ちゃまはっ!」
言葉に出さずとも、その佇まいから光陽の心の内は伝わってきていた。だからこそ、なお腹立たしい。普段はあれだけ女の子達に歯が浮くような言葉を投げかけているのに、どうしてそこは言えないのだと思う。左中将ともあろう人がこんなに情けなくていいのかと、帝に投げかけたいくらいだった。けれど、皇后にも分かっていた。光陽が何を守りたくてこんなことをしているのか。
「あの臆病者は翠との関係が壊れるのを避けているのよっ! きっと翠の気持ちだけじゃなくて、自分の気持ちからも目を背けているわ! 自分と向き合いたくないから兄弟ごっこをしているのよ!」
言葉に出すと更に怒りが込み上げてくる。手に持った扇を投げたくなる衝動を必死に堪え、強く握りしめる。どうもこの怒りは話した所で解消できるものではないらしい。そんな皇后に対して、黙って聞き役に徹していた侍女長は一つの人形を差し出した。
「皇后様、どうぞ」
「これは?」
「巷で流行っている呪いの藁人形だそうです。憎い相手の名前を書いて人形に貼り、釘で打ち付けると相手に呪いがかかると言われていますが……皇后様の場合人形を打つだけでも気持ちが晴れるのではと思い、今朝水月からもらいました」
侍女長から藁人形を受け取り、まじまじと眺めた。次第にそれが光陽に見えてきて、どこに眠っていたのか更に怒りが込み上げてくる。そうなってからは、言葉はいらなかった。侍女長がそっと差し出した釘と金槌を受け取り、壁に向かって藁人形を打ち付けた。
カンッ……カンッ……
その音だけが部屋に響き渡る。単純動作を繰り返しているうちに、少しずつ、皇后の心は静まってきた。半分ほど打ち付けた所で疲れを感じ打ち付けるのを止めたが、先ほどまでのモヤモヤがどこかにいったようだった。
「これ……いいわ……ありがとうっ!」
そう言って皇后は侍女長に抱き着く。後ろに仰け反りながら、侍女長は皇后を受け止めた。背中に手をやると、子どもをあやすかのようにポンポンと背中を撫でる。
「いえ。お役に立てたのであれば光栄ですわ」
張りつめていた空気が解れていき、和やかな空気が部屋に広がっていった。この日を境に、怒りを感じた際には釘を打ち付ける音が皇后の部屋から聞こえるようになり、周囲の侍女を震え上がらせることになったのだった。