第9話

文字数 1,657文字

9。

「ぼっちゃん、今日は旦那さまは学会で帰ってこられないようですので、早い目にお夕飯にされますか?」
琴に声をかけられた瞬間、ぼうっとしていた思考がぎゅっとなって戻ってくる。
「あ……そうなんだ。分かったよ」
「図書館へ行かれますか?」
「……うん、ちょっと出てくるよ」
「はい。気をつけて行ってらっしゃいませ」
みんなで緑地公園へ行ったときのことが時々思い出される。あれからだいぶ日が経ったけれど、坂下や6年が何かしてきたってことはない。多少のいざこざはあるけれど、そんなに大きな問題ではなかった。でも……やっぱり絡んでくるよなぁ、坂下って。
永朝(ツネトモ)は玄関で靴を履くと、大きな玄関の扉を開ける。暑い日差しと熱のこもった風が入ってくる。
「暑っ……」
季節はもう夏になり、今は夏休みの真っ只中だ。梅雨も明け、セミがなき、入道雲が見事な今日、図書館へ僕は向かっている。小学生になってから、図書館という場所を知った。一人になれる場所を知った瞬間だった。
僕は、きっと幸せな子どもなのだと思う。生まれたときからその誕生を喜ばれ、大切にされ、困ることなどなく、ここまでなに不自由なく育ってきた。自分の部屋もあるし、必要以上な束縛もなくここまできた。
将来は医者になる。それは自然と決まっていること。不満なんかない。でも……
でも、時々、気持ちと頭がギューっとなっていた。なにもできない時もあった。そんな時、僕は図書館に行くようになった。僕の家族が来ない、僕だけの場所……。
そこに、ある時、変わった女の子がきた。キョロキョロしながら入ってきて、児童図書のところでずっと本を読んでいた。今まで見たことない同い年くらいのその子は、真剣に本を読んでいた。くるくると表情が変わり、本の中の出来事が彼女の顔を見ると手に取るように分かった。僕はいつの間にか彼女の姿に見いっていた。
けれど、それ以降会うことがなくて、思わず気になって図書館に通い詰めていた。3年の時、グランドで起こったトラブルでその子がマホロだったことが分かり、その年の夏には図書館で会うことができて、それ以来、たまにここで会って勉強をしている。マホロは、一人にしておけない危なさがあった。自分のことに対してあまり興味がないというか……。だいたい怪我しても病院へ行かないって、それは僕には考えられないことだ。そうかと思うと、感情を見せることもある。坂下たちとのトラブルはその代表かな……。
 市立図書館の入り口まで来て、深呼吸をひとつ。自動ドアが開くとひんやりとした空気がそとに漏れる。受付を抜けて少し奥に行くと右手に児童図書コーナーがある。
その先のテーブルに僕は用事があった。
「早いね」
僕の声にその席に座っていた女子が顔を上げる。
「うん、この小説面白くて、続きが読みたくて、早く来たの」
にっこりと笑う彼女は、本当に本が好きだ。
「それってどういう話なの?マホロ」
「えっとね……」
よくこうして本の内容を教えてくれるのだ。マホロは弟の話以外、家のことは話したがらない。僕も別に好んで話をするわけではないから、聞かない。その空間が自然で心地よい。
「そう言えば、マホロって明日の祭り行くの?」
「え?」
「ほら、団地主催のさ、夏祭り。みんな行くって言ってたけど…マホロはなんも言わなかったから」
「あー……、どうかな~、ほら、カズイもいるしさ」
「え、一緒に来ればいいじゃん」
僕たちの空間にちょっと間ができる。

え、僕、変なこと言った?

マホロの視線がフニャッと柔らかくなったのが分かった。
「え……いいの?」

え、なんだ……?

「え……いいでしょ、マホロの弟だもん」
一瞬にして笑顔になる、マホロ。

な、なんだ?!

「うれしい。聞いてみて大丈夫だったら、行くよ」
何だか今まで見た表情とは違って、幼い、というか、4年生相応というか…とにかく、どきっとする顔だった。
「う、うん。東公園で2時から始まってるから、僕たちはそれぐらいには誰かがいるよ」
「分かった」
こんなに嬉しそうに言われると、さすがに照れる……。
僕は思わず視線をそらした。
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