第43話 レットイットビー

文字数 1,816文字

 夜のしじま……。
 フィフィフィッ!
 ぼくはうつらうつらしている……。

 フィッ、フィリリリリリリ……、フィッ、フィリリリリリリ……。
 しん、と冷気に閉ざされた荘厳な太古からつづく原生林。
 凛、とした猛禽類のさえずりが夜の闇を切り裂いていく。

 薄目を開ける。暗い。ぼくは自分がどこにいるのか分からなくなり困惑する。困惑しながら夢の世界へ戻っていく。
 夢の世界ではヒヨドリがけたたましく鳴いている。生まれ育った杉並の家……。家の前の小さな公園……。明け方にすさまじく鳴きわめくヒヨドリたち。

 フィッ、フィリリリリリリ……。
 あれ? これはヒヨドリじゃない。これは……、白頭鷲(ボールドイーグル)。覚醒していく……。ああ、ぼくはカナダのフローレス島にいるんだったな。そうか……。暗いな。
 ハクトウワシはいつもだいたい日の出の一時間前にさえずるから、暗いけど、もう朝七時は過ぎてるだろう。

 二〇〇五年の十二月から二〇〇六年の一月下旬まで、二ヶ月も島を離れてバンクーバーの知人宅で、一日中むさぼるように日本のテレビの海外向け放送にかじりついていたおかげで、頭の中が日本語一色に塗りつぶされていたのです。それで昨日島に帰ってきたのに、自分がどこにいるのか分からなくなっちゃってた。

 数年前までは、バンクーバーから一日で島に戻ってくるためには、朝五時半発のバスに乗らなければ不可能だったのに、最近ではずいぶん便利になって、朝九時にダウンタウンのウォーターフロント駅から出るバンクーバーアイランド行き高速フェリーに乗り、バンクーバーアイランド側のナナイモでマイクロバスに待ち合わせてもらって、昼の二時前にはトッフィーノ着。すぐにインディアン居留地アホーザット村か、ホットスプリングスコーブ村の誰かが運転するウォータータクシーに乗れれば、二時半にはフローレス島の我が家に帰り着く、という驚くべき速さで帰って来ることができるようになりました。

 そんなこともあって少々混乱していたのですが、まぁ、長い旅を続けていると、ベッドの上で自分の居場所がまるっきり把握できなくなる、ということはときどき起こるものなのです。パリに居ながら、あれぇ? ここカトマンズ(ネパール)だったっけ、バルセロナ(スペイン)だったっけ……? なんてね。
 (高校卒業以来もう二十年以上、どこかの安宿か飯場のせんべい布団の中で目覚める放浪生活が長かったので、デジャヴーを感じながら目覚めたときなど、どこにいるのかわかんなくなっちゃうことがあります)

 もそもそと起きだして、ミルクを温め、我が家の門番をしてくれている二匹の猫、前門のニャアと後門のクロスケに差し入れします。
 「よくぞ家を守っていてくれたね」
 二ヶ月ぶりにぼくが戻ってきたときのニャアの取り乱さんばかりの喜びよう、クロスケの必死に冬を生き抜いていた野生の顔つきは、忘れられるものではありません。二匹とも何年もの間、人間にはほとんど姿を見せず、このカナダの大自然の中で力強く生命を躍動させて生き抜いてきた、ぼくにとっては聖なる存在であるのです。友達と呼ぶことさえ畏れ多い神聖なエネルギー体だとでも申しましょうか。それが去年の春先から、ちょっとした拍子からぼくの家の門番をしてくれるようになったのでした。

 そしてこちらも聖エネルギー体であると呼ぶべきハクトウワシ。去年ノースバンクーバーで、密猟で殺された多くのハクトウワシの売買が摘発された事件がありましたが、この界隈でもずいぶんな数のワシたちが密猟の犠牲になったのが現状です。彼らの羽や爪をアクセサリーに欲しい、と思う心無い人たちに売りつけられる、そのために。

 そんなもの、手に入るべき人のもとにはそれこそ空から降ってくるのです。バンクーバーの土産物街ロブソンストリートでだって、空を見上げれば、

、何羽ものハクトウワシが大空を舞っている姿が見えるのです。手に入る人間には自然に向こうからやってくるのです。それまで待つ。待てぬ人間には元々その資格はない。それならそれでいいではないか。素晴らしいものがそこに在るのなら、在るものをそこに在るがままに、在るがままのものを愛でる。そういうことの出来ぬ人間のいかに多いことでしょう。悲しい限りに。

 (バンクーバー ⇔ ナナイモ(バンクーバーアイランド)間の高速フェリーは、その後すぐに廃業してしまったので、またもや街は遠くになりにけり、です)
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