第45話 ぼくのガオウ

文字数 1,553文字

 二〇〇六年四月八日。
 今年は去年と比べて二週間も姿を見せるのが遅かったハチドリたちも、ようやく何とか窓辺が活気付いてきたかな、と思うくらい増えてきました。
 そんなおり、バックポーチの黒猫クロスケのところに朝ご飯を持っていってあげると、にゃーんにゃーんとひとしきりごろごろ朝の挨拶をした後、なんと大好きなミルクにさえ手をつけずに旅に出てしまったようです。
 そのうち帰って来るやら、来ないやら……。ま、猫ってのはだいたいそんなもんなんでしょう。クロはオスだし。

 いつも今くらいになると、あるハチドリのことを思い出します。今日はクロがいなくなったこともあって、余計に二年前(二〇〇四年)の春先にいたハチドリのことが、少し切ない感情を伴って思い出されました。
 その年も窓辺のハチドリを初めて確認したのは三月二十二日でしたから、三月二十五日が最初だった今年とほぼ同じような季節の推移だったのかもしれません。

 日没の夜八時頃から二十分ほどの間、薄闇の窓辺にたくさんのハチドリたちが集まってきているのを眺めていると、中に口を全開に開けっ放しのハチドリがいるように思いました。
 いやぁでもそれってへんな話だなぁ。わらしべでものど元に引っかかってるんじゃないのかな?

 翌日の夕方も観察していると、やっぱり一羽、口を大きく開けているように見えます。そこへストアの孫娘のシャルビィがやってきました。
「ねぇ、なんであのハチドリは口を開けっ放しなの?」
 ああ、やっぱりシャルビィにも口が開けっ放しに見えるよねぇ。
 しかしまた翌日の昼間、フィーダーの砂糖水の入れ替えをしているところに例のハチドリがやってきたので、今度は何がどうなっているのかはっきりわかりました。

 オスのアカフトオハチドリの下あご(下の(くちばし))が、根元から真下に向かって完全にぽっきり折れちゃってます。これはひどい。重症じゃないですか。お前いったい何しちゃったんだい? 虫でも追いかけていて、高速で飛行しながら食べようと口を開けた瞬間、木の枝かなんかにぶつかっちゃったのでしょうか。しかしこんな、嘴が根元から丸まる折れちゃうような大事故があって、よくショックで死ななかったものです。

 ハチドリはそんな重症の状態ですから、もう他のハチドリたちみたいに高速飛行は出来ないように見えます。体はまぁるい形のまま、ぶ~んと近くの立ち木の中から、窓辺のフィーダーにゆっくりと飛んできます。
 ただでさえ蹴飛ばしあって、たいへんな喧嘩ばかりしている他のハチドリたちの中に混じって、健康体のハチドリたちに一方的に蹴飛ばされながらも、彼はけなげに一生懸命生きていました。
 がんばれ。負けんな。

 日が経つにつれ、ハチドリの下あごの残骸はどんどんと黄土色になり、下あごが無いから、長い舌が渇ききって、よれよれになって下に垂れ下がってきていました。
 見るも無残、いや凄惨、といった感じです。

 しかし、このすさまじい容貌に、他のハチドリたちも恐れをなしてしまいました。彼の顔を一瞥するや、他のどんなに強気なハチドリたちも、驚愕の(てい)をなして逃げ去るのです。これも一つの強さでしょう。彼は完全にフィーダーのひとつを彼だけの占有物にしてしまいました。強い強い!
 「ガオウ」、ぼくは彼をそう呼びました。

 でもある日、ガオウのフィーダーが空になっていたのに数時間気がつかないでいたのです。いつも気にかけていたというのに、その日に限って。そしてガオウはそれっきりいなくなってしまいました。
 実はその日、ガオウだけでなく多くのハチドリたちが、南米を目指して旅立っていったのは事実です。そういうタイミングではあったのです。それでも最後にガオウにお腹いっぱい飲ませてあげられなかったと思うと、今でも胸が痛むのです。
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