第49話 I am too busy to die(悟りは遥か遠く)
文字数 1,666文字
ご近所のインディアン、キースのお気に入りの笑い話があります。あれはぼくが初めてこのフローレスアイランドの冬を越そうとしていた年ですから、たしか二〇〇一年の暮れに近かった頃の話だったと思います。
その話を理解するために、少々、ここいらのインディアンの死生観のお話をしておこうと思います。
“I Heard The Owl Call My Name”「ふくろうが私の名を呼ぶ」マーガレット・クレイヴン原作、片岡義男訳(角川書店・絶版)
この小説については “第9話 不思議のアホーザット” でも取り上げましたが、一九七三年にゴールデングローブ賞俳優トム・コートニー主演で、ここフローレスアイランドのインディアン村マーカトシス、通称アホーザットビレッジを舞台にテレビ映画化されました。
劇中の主人公、バンクーバーから辺境のインディアンビレッジに派遣されてきた白人青年牧師の台詞にもありますが、ここでは「生と死がもの凄く身近に交錯している」。
日本、というか世界各地での古代社会を思わせますが、つまり、誰がいつ、どの瞬間に死んでも何の不思議もないし、
死も生と同じく日常であり、文字通り常に身近にある。
そして誰かが死ぬとき、本人、あるいは周囲の誰かが「ふくろうが(その死にゆく人の)名を呼ぶのを聞いた」、と言います。
だから覚悟していた……!
本人も、周囲の人間も、老いも若きも、覚悟を決めて、あるいはある種の決意を秘めて、残された生をまっとうしていくのです。
ぼくもこのアホーザットに住むようになってからそろそろ七年半になりますから、よく一緒に釣りをしたり、お隣のストアで雑談をしたりしていた人たちが、気が付けばいつのまにかもういない、いつのまにか亡くなってしまっていた、ということも少なからず経験してきました。
そういうとき、いまだにこの「ふくろうが名前を呼んだから……」という言葉を聞くことがあります。
しかし本当に「ふくろうが人の名を呼ぶのを聞いた」のでしょうか?
そうかもしれない。そうでないのかもしれない。しかしすべては「ふくろうに呼ばれたから」、そう「ふくろう(運命)に呼ばれたから」。
これは運命だ、とすべてを受け入れて生き、そして死んでいく、そういう魂の根底に秘めた、覚悟の表れなのではないのか、と思います。
さて、ぼくにまつわるキースお気に入りのエピソードですが、その冬はぼくにとってカナダで初めての、しかもこんな辺境の島の薪ストーブしかない百年前の家、での越冬ですから、いったいどれだけの薪を蓄えておいたら凍え死なずに済むのかの見当がつかなくて、とにかく必死に、本当に命に関わる、という思いで、キースの製材所のスクラップをひたすらチェーンソウでぶった切っては一輪車で家の縁の下に運び込む……、流木を見つけてはボートで曳いてきて、またチェーンソウでぶった切って斧で割って運び込む……、ということを、春先からずーっと暇さえあれば、フル回転で続けてきていました。
ある日、薪集めの合間を縫って、何かの用事で足早に丘の上の製材所の前を通り過ぎようとしていたとき、誰かに名前を呼ばれたような気がして立ち止まりました。あたりを見回しても誰もいない……。再び歩き出したら、またなんとなく誰かに名前を呼ばれたような気が……。実はキースが製材所の道具小屋の中から、工具の手入れをしながらうつむいた状態でぼくのことを呼んでいたのですが、こちらは砂利道を歩いているし、誰の姿も見えないし、で、ぼくは「気のせい」と判断してそのまま用事を済ませに通り過ぎて行ったのでした。
もう覚えていないんですが、キースが言うには、ぼくはそのとき「この忙しいのに死んでられるか!」とぶつぶつ怒りながら歩いて行ってしまったのだとか。キースはしばらく「何のこっちゃ?」といぶかしんだところで、ハッと思い当たって笑い転げた。
もう五年も前の出来事だというのに、今でも彼はこの話をするたび、いつもいつも可笑しそうに涙さえ流しながら話すのです。
その話を理解するために、少々、ここいらのインディアンの死生観のお話をしておこうと思います。
“I Heard The Owl Call My Name”「ふくろうが私の名を呼ぶ」マーガレット・クレイヴン原作、片岡義男訳(角川書店・絶版)
この小説については “第9話 不思議のアホーザット” でも取り上げましたが、一九七三年にゴールデングローブ賞俳優トム・コートニー主演で、ここフローレスアイランドのインディアン村マーカトシス、通称アホーザットビレッジを舞台にテレビ映画化されました。
劇中の主人公、バンクーバーから辺境のインディアンビレッジに派遣されてきた白人青年牧師の台詞にもありますが、ここでは「生と死がもの凄く身近に交錯している」。
日本、というか世界各地での古代社会を思わせますが、つまり、誰がいつ、どの瞬間に死んでも何の不思議もないし、
違和感もない
のです。死も生と同じく日常であり、文字通り常に身近にある。
そして誰かが死ぬとき、本人、あるいは周囲の誰かが「ふくろうが(その死にゆく人の)名を呼ぶのを聞いた」、と言います。
だから覚悟していた……!
本人も、周囲の人間も、老いも若きも、覚悟を決めて、あるいはある種の決意を秘めて、残された生をまっとうしていくのです。
ぼくもこのアホーザットに住むようになってからそろそろ七年半になりますから、よく一緒に釣りをしたり、お隣のストアで雑談をしたりしていた人たちが、気が付けばいつのまにかもういない、いつのまにか亡くなってしまっていた、ということも少なからず経験してきました。
そういうとき、いまだにこの「ふくろうが名前を呼んだから……」という言葉を聞くことがあります。
しかし本当に「ふくろうが人の名を呼ぶのを聞いた」のでしょうか?
そうかもしれない。そうでないのかもしれない。しかしすべては「ふくろうに呼ばれたから」、そう「ふくろう(運命)に呼ばれたから」。
これは運命だ、とすべてを受け入れて生き、そして死んでいく、そういう魂の根底に秘めた、覚悟の表れなのではないのか、と思います。
さて、ぼくにまつわるキースお気に入りのエピソードですが、その冬はぼくにとってカナダで初めての、しかもこんな辺境の島の薪ストーブしかない百年前の家、での越冬ですから、いったいどれだけの薪を蓄えておいたら凍え死なずに済むのかの見当がつかなくて、とにかく必死に、本当に命に関わる、という思いで、キースの製材所のスクラップをひたすらチェーンソウでぶった切っては一輪車で家の縁の下に運び込む……、流木を見つけてはボートで曳いてきて、またチェーンソウでぶった切って斧で割って運び込む……、ということを、春先からずーっと暇さえあれば、フル回転で続けてきていました。
ある日、薪集めの合間を縫って、何かの用事で足早に丘の上の製材所の前を通り過ぎようとしていたとき、誰かに名前を呼ばれたような気がして立ち止まりました。あたりを見回しても誰もいない……。再び歩き出したら、またなんとなく誰かに名前を呼ばれたような気が……。実はキースが製材所の道具小屋の中から、工具の手入れをしながらうつむいた状態でぼくのことを呼んでいたのですが、こちらは砂利道を歩いているし、誰の姿も見えないし、で、ぼくは「気のせい」と判断してそのまま用事を済ませに通り過ぎて行ったのでした。
もう覚えていないんですが、キースが言うには、ぼくはそのとき「この忙しいのに死んでられるか!」とぶつぶつ怒りながら歩いて行ってしまったのだとか。キースはしばらく「何のこっちゃ?」といぶかしんだところで、ハッと思い当たって笑い転げた。
もう五年も前の出来事だというのに、今でも彼はこの話をするたび、いつもいつも可笑しそうに涙さえ流しながら話すのです。