第37話 祈祷師・長老スタンレイ・サム

文字数 1,884文字

「これこれそこのお若いの、ユキ! ちょっと寄っていきなさい」
 インディアンビレッジに軽い用事で立ち寄っていたとき、突然誰かに呼び止められました。姿が見えず、声だけかけられたのでびっくりしてあたりをキョロキョロ見回していると、一瞬ですが、背中越しに誰かの姿が建物の中に消えていったような気が……。

 あれ? この家って、長老のスタンレイじいさんの家だよなぁ。スタンレイじいさんがぼくを呼んだ? ホントにホント? スタンレイじいさんに声をかけられたのなら、それは最高に光栄なことなのですけど、確信が持てないのが困りました。
 だってもしも呼ばれていなかったのに家の中にずかずかあがっていっちゃったら、これは逆に最悪ですもん。困ったなぁ。

 おどおどしながらドアが開けっ放しのスタンレイじいさんの家の玄関先へ行き、「あのー、スタンレイさん、呼びましたか?」
 あれ? スタンレイじいさん、いないよ。
 「スタンレイさぁん」
 う~ん、返事無し。そうだ、スタンレイさん、耳が遠いからな。困ったなぁ。

 しばらく玄関先でもじもじしていると、やっとスタンレイじいさんが出てきてくれました。そして「どうだい、ワシの息子が作ったカヌーのミニチュア。なかなかよく出来てるだろう?」なんてカヌーの模型を持ってきて、ぼくがそこにいるのが当たり前のように話しかけてくれたので、(ああ、やっぱり呼ばれてたんだ。よかったぁ)と、ほっとしました。

 カナダ海洋インディアン「ヌー・チャ・ヌルス族」の長老、スタンレイ・サム。
 重要な儀式が行われる際の祈祷師であり、また数々の(いにしえ)の知恵や物語を継承するストーリーテラー。彼はヌー・チャ・ヌルス族の精神的指導者として、きっとこれが日本だったら絶対人間国宝だよね、という人物なのです。

 突然こんな人に家に呼ばれたのもびっくりしましたが、スタンレイじいさん、なにやら非常に機嫌がよく、世間話やらインディアンの伝説やら、次から次へとしゃべりはじめました。
 だはっ! いきなりもの凄くスペシャルな状況に放り込まれちゃったよ!
 だってスタンレイじいさんのお話を聞くことができるというのは、ホントにホントにたいへんなことなのです。

 たとえば今までだって多くの白人連中が、(本にでもして一儲けするつもりで)何とかスタンレイじいさんの話を聞きだそうとしたけれども、じいさんは「ガン」として口を開かず。

 またたとえば、ヌー・チャ・ヌルス族のアーティストたちが作る芸術作品には、ヌー・チャ・ヌルス族に伝わる数々の伝説が織り込まれているものなのですが、そのモチーフである物語を知り、またなおかつそれを語る権利があるのは、スタンレイじいさんただ一人なのです(カナダ北西沿岸のインディアンの世界では、「物語り」も個人の財産とみなされていて、それを語る資格も個人の財産であるから、他の人間がその権利を侵す、つまりその物語りを人に語って聞かせるなどという行為は許されない、ということらしいです。そういう前提でものを見ると、インディアンの長老の言葉とかを紹介している本やホームページはゴマンとありますが、そのほとんどは確実にルール違反を犯しているのではないのでしょうか。いい話だからって、勝手に人に話してはいけないのです)。

 ですからアーティスト達は、スタンレイじいさんが(

)何かを語りだす瞬間を一日千秋の思いで待ちつづけ、その語られた物語を一言一句漏らさず心に焼き付けて、魂を込めて彫刻や絵画などに刻み込むのです。

 スタンレイじいさんは語ります。
「シャチの群れが海藻の森へ入っていってな、その途端に狼たちに姿を変えて岩場に飛び上がって行ったのじゃよ。これは古くからの伝説にあることじゃが、ほんの三~四年前にも実際に起こったことなのじゃ」

 スタンレイじいさんの語る物語は、白人たちにはもの珍しいただの商売の種にしか聞こえないでしょう。けれど、たとえば八百万の神とかの概念を理解できる文化的土壌に立つ日本人には、奥深く大切な知恵として受け止められるだけの魂が宿っていると思います。

 ふんふんと真剣に話を聞いていたぼくに、スタンレイじいさんが言いました。
「I give you this story, おまえさんにこの物語をあげよう」
 突然の言葉の意味に戸惑いました。
「おまえさんに、ここに書かれている物語をすべてあげる。おまえさんの国の多くの人たちにも語ってあげなさい」
 スタンレイじいさんの著書を手渡され、そしてまさか物語を語る資格まで授けられるとは! いやはや、まったく、恐れ多いことになりました。
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