第56話 ある日、森の中

文字数 2,371文字

 フローレス島では黒熊との遭遇は日常的で、犬より頻繁に見るくらいでしたから、慣れちゃって、風景の一部的にそれほど気にも留めなくなるまでさほど時間はかかりませんでした。でもそりゃあやっぱり、始めて熊を見たときは(しかも原生林のトレイルの曲がり角で鉢合わせ)、背筋に電撃が走って「人生終わったー!」と瞬間的に立ち尽くしたのを覚えています。

 まだ島全体の輪郭さえも知らなかった頃、ぼくは原生林を走るトレイルの所要時間を計るため、一人で森に入っていました。普段森に入るときは、誰も整備しなくてジャングル化したトレイルを切り開いていくため、山賊が持っているような蛮刀(マシャディー)を振り回しながら行くのですが、この日はやっと開通させたトレイルの細かい時間データを記録するため、ペンと手帳だけしか持っていませんでした。
「ペンは剣よりも強いんだから熊なんて平気だもんね」てことにしておきたい。

 歩いている方位、時間、目標物、を事細かに記録して、自分もまだ把握してないフローレス島の地形データを収集します。
「ああ、ここは熊の巣穴から一分も離れてないところだ。迂回路を作らなくっちゃ。あ、あそこはトレイル上に蜂の巣があって、意を決して巣を倒木で叩き壊して一目散に逃げたけど、蜂の復讐で頭をさんざん刺されたところ……」
 (そのときの蜂って頭ばっかり集中的に攻撃してきたんですよ。やっぱり黒熊が天敵だから、黒い髪の毛を攻撃対象にしたんですかね)

 我が家ハミングバード・インターナショナル・ホステルからおよそ一時間半、原生林を突っ切ると、フローレス島の南のビーチにたどり着きます。「ホワイトサンド・コーブ」白砂の入り江。
 フローレス島の南側には、ほんの数年前にブリティッシュ・コロンビア州立公園事務所とフローレスのインディアン居留地アホーザット村との協力で作られた、ワイルドサイド・ヘリテッジ・トレイルという有名なハイキングトレイルが走っているので、ホワイトサンド・コーブからはそのトレイルを伝って、島の南東の入り江にあるアホーザット村を目指して行きます。くねくねと曲がりくねった山道。正面の曲がり角の木の幹に、大きく苔が盛り上がった緑の塊がありました。わぁ、嫌なもの見ちゃった。

「あ、ありゃあ蜂の巣だなぁ。このあいだ他の場所で見た蜂の巣に手ぇ出して、さんざん刺されたから触らず放っておきたいけど、あのままじゃハイキング客がだいぶ被害にあうだろうなぁ」
 嫌だなぁ。でもやっぱり覚悟を決めて破壊しなきゃだめかなぁ。

 本当に蜂の巣かどうかを確認するため、その緑の(こぶ)に向かってずんずんと歩いていきました。そのとき! 左手の藪の中から急速に接近する真っ黒な巨体! 熊!!
 目標の蜂の巣が道の曲がり角にあったため、その一点だけを凝視していたぼく、その一点だけを目指していた熊、双方、熊が蜂の巣の手前でトレイル上に飛び出してくるまでお互いに気づかず、文字通りの鉢合わせ。
「うわ、死んだー! 人生終わったー!」
 かと思いきや、熊の方もぼくを見て「うわ、死んだー! 熊生終わったー!」という、まるで似たようなリアクション。数秒間お互いに動けず。でもそこでぼくも熊も、一秒を争う緊急事態ではないと理解する。

 熊「逃げたいよう。でも、蜂蜜も欲しいよう」とオロオロしだす。ぼく、熊の気持ちを察したので「いいよ、蜂蜜食べなよ」としぐさと気持ちで会話する。熊「ほんと? ありがと」と蜂の巣を壊して蜂蜜GET 。いえいえこちらこそ蜂の巣を壊してくれて助かった。
 熊は満足して歩き出し、そのあと約八分間、ぼくは次の砂浜まで、熊の後姿を見ながら歩いて行きました。

 この体験で、幼稚園の頃からずっと不思議に思っていた謎がひとつ解けたような気がしました。
 花咲く森の道で熊さんがお嬢さんに「お逃げなさい」と言ったのは何故なのか? きっと「これから蜂の巣を壊すので、蜂が襲ってくるかもしれないから危ないよ。お逃げなさい」て意味だったんじゃないのかな。優しい熊さんだな、なんて考えながら歩いていました。
 (砂浜に出たとたん、そこでキャンプしていた白人たちが大パニックを起こしちゃった。熊見てパニック。続いて出てきたぼくを見て、すごい表情で凍り付いてた)

 ☆これは野生の黒熊との初遭遇で、文字通り対処初心者だったときのお話です。今では猛烈に反省していますが、野生の熊と馴れ合うなんていうことは絶対にしてはいけません。人間を恐れなくなった熊は、死にます。この海域では、白人も含めて地元の男達は百パーセント、常にライフルを所持していますから、熊なんぞは見たとたんに撃ち殺します。熊も十分それを承知していますから、普段は人間に気付いたとたんに、弾丸のように逃げ去ります。でも、野いちごなんかに夢中になっていて、こちらに気付かず、逃げないときも時々あります。そいういう場合は、パンパン、と軽く手を叩いて「人間ですよー」と教えてあげると、すぐ逃げますから、とにかく「人間は恐ろしい」という認識のままにしておかせるのが、彼らをむやみに死なせない最低限の方法です。

 ちなみに「森の熊さん」の原曲であるアメリカ民謡の歌詞では、もともとが「サイダーを飲む」という他の歌をボーイスカウトたち(子供たち)が替え歌にして歌ったものであるため、いろいろなローカルバージョンがあるようです。熊は人間が銃を持っていないと見るや、逃がしては追い詰め逃がしては追い詰めして遊んでいる嫌なやつだったり、そんなことをやって獲物をいじめているうち、他の人に撃たれて敷物になっちゃったり……。どっちみち人を襲うのは黒熊(ブラックベア)じゃなくって灰色熊(グリズリー)だと思いますけど。
 ぼくと一緒に歩いた黒熊君は、胸に横一文字に白い線が入っていました。やっぱり日本のツキノワグマに近いんだなぁ。
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