第20話 走れ! バンビちゃん

文字数 1,558文字

 昨日は朝から大雪でした。雪煙と霧で、入り江の向かい側の木々がかすかに見える他はな~んにも見えません。僅かに開けた視界の中、シャーベット状の雪に覆われた海面が、引き潮と共にどーっと動いていく様子はなかなか見応えがありました。

 ホワイトアウトで視界は全然きかないんですが、そんな中でもアホーザットのインディアン達はアサリ漁に出かけていきます。
「ここのインディアンはよっく働くなぁ」
 と感心しますが、それだけ魅力のある高値でアサリは取り引きされるのも確かです。速い人ならほんの二~三時間で三百ドルくらいは稼いでるんじゃないかなぁ。

 酋長(チーフ)はぼくにも掘っていいよとは言ってくれていますが、アサリ漁のライセンスを取る際にぼくのビザはそこまでは対応していないので、捕まったらすべてが台無しになっちゃうから、いつか永住権を取るかも知れないそのときにあらためてお言葉に甘えさせていただくことにして、今は商売と関係なく自家用に掘ったときと、彼らのお裾分けを貰って食べるだけにしておきます。寒いし……(マジで!)。

 次々とアサリ漁に出発していく友達のインディアン達のボートを横目に、ぼくは踵を返して、原生林のトレイルに踏み込みました。
 
 しんしんと雪の降り積もる太古の森。
 言葉も出ないほど美しい。

 静寂に包まれた森を独り行くと、小川のせせらぎが、枝葉や倒木から滑り落ちる粉雪のかすかな質量が、そして凍結した海面が干潮に向かうにつれバリバリと引き裂かれていく破裂音が、凍りそうな空気をふるわせるようにして伝わってきます。

 そして入り江の奧の、氷と水との境目辺りには四羽の白鳥が優雅に浮かび、ふと見上げれば、自分のすぐ頭上の小枝にも若い新芽が日に日に大きくなってきていて……。
 す……ばらしい。

 新しく降ったばかりの雪の上に、子鹿の足跡を発見しました。普段、ここフローレスアイランドでは、鹿を見ることはまずありません。昔はきっと沢山いたのでしょうが、たぶんインディアン達にみんな食べられちゃった。おかげで鹿の天敵であるクーガーのような大型の補食獣もバンクーバーアイランドの方へ渡って行ってしまったので、人間にとっては平和といえば平和ですけど。

 でもこの子鹿の足跡にはね、心当たりがあるんです。
 二週間ほど前のことでした。お隣のアホーザット・ジェネラル・ストアのおやじが、
「ユキ、カメラ持って出てこーい!」
 と叫ぶので、寒い中しぶしぶと顔を出すと、インディアン村のタグボートが、デッキのぶっといロープに子鹿をぐるぐる巻きにくくりつけてやってきて、ぼくの家の前の桟橋でその子鹿を逃がしてたんです。

 タグボートの操舵手ジョンが言うには、温泉の川が岩場から海に注いでいることで有名なホットスプリングスコーブで一仕事終えた後、帰りの航路で、波間に見え隠れして溺れそうになりながら必死で泳いでいる子鹿を見つけたのだそうでした。
 捕まえたとき、子鹿はなんにも抵抗することが出来ないくらい疲れ切っていたのだそうです。

 子鹿が単独で海を渡っているなんて、きっとクーガーにでも追われたのでしょう。頭の所に生々しい傷跡がぱっくりと開いていました。
「あの怪我、クーガーにやられたのかなぁ」
 とぼくが言うと、ジョン曰く、
「いや、あれはオレがぶん殴った」
 ですって!

 泳いでいる鹿なんて簡単に捕まえられるので、ラッキー♡、て思って(食べちゃうつもりで)こん棒でぶん殴って船に引き上げたけど、子鹿なので何となく殺しにくくなって、それでここで放したらしいです。

 ぼく達が見守る中、子鹿はストアの裏の急斜面を、森の奧へと消えて行きました。
「子鹿の足跡があったこと、ストアのおやじにも教えてあげよう」
 
 子鹿、元気でやっているかな。タフに生きるのだぞ。がんばれ! 負けんな!
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み