タムの結婚(12)──ラクトゥーカ研究所

文字数 4,704文字

 横たわった体に染み込んでくる岩石の冷たさでキッパータックの頭の中は冴えるどころか緩慢になってくる。外と比べると明らかに洞窟内部は温度が高く、どういうわけか適度な照度の明かりまである。手足を拘束されていなければ、ある意味快適と言うこともできたかもしれない。この後、また意識を奪われ人気のないの山に放りだされるのだろうか。女がダムに沈めると脅したが、どこまで本気だろう。キッパータックはじわじわと自分を浸食してくる眠気を払うためにレイノルドのことも考える。無事に隠れられただろうか? あの賢いカラスが助けを呼べたら──。それからタム・ゼブラスソーン。先ほどの連中と一緒にいるのだろうか。福田江(ふくだえ)(まもる)は?
 泥棒たちが去っていったのとは逆方向から靴音が聞こえた。別の通路を辿って誰かが来たことはわかるが、無理に寝返りを打ってまで確かめたいという気が起きない。誰が現れてもキッパータックにとって良いことにはならない、という予感が強かった。タムにはそういう仲間が大勢いるのだろうと思っていたからだ。
 自分に危害を加えるかもしれない新たな人物の登場を想像すると、急に目を閉じて眠ってしまいたくなった。品物の森のガラクタみたいに誰からも放っておいてもらえる存在になれたらいいのに。
(かない)さん、ごめん。僕は……」
「しっ」
 キッパータックはまさかの光景に目を疑った。自分の背後に身を寄せてきたのは、ドルゴンズ庭園の大庭主、ルカラシー・ドルゴンズだったのだ。
「ド、ドルゴンズさん!」
「静かに」ルカラシーは傍らにしゃがみ込み、テープで巻かれたキッパータックの腕を掴んだ。「今、ナイフで手足のテープを切りますから、動かないで。さっき、そこの通路に緑のマントがかけてありました。ここはタムたちの隠れ家ですね?」
 体の拘束が解けた。ルカラシーは折りたたみナイフの刃をしまうと、キッパータックが起きあがるのを手伝う。
 遠くの洞穴で泥棒たちの話し声が起こった。「誰か来る。逃げましょう」
 ルカラシーはキッパータックの腕を掴んで走る。自分が辿ってきた通路へ戻りたかったが、距離が遠い。ルカラシーの目に桃色の短冊が止まった。逡巡している暇はない。我が身から一番近いその洞穴を選ぶと、キッパータックの背中を押して潜った。

 どれくらい走ったか。やがて外の眩しい光が届くようになり、真っ青な空が視界を覆っていく。するとフッと通路が消え去って、冒険譚の次の章へ勢いよく飛び込んだみたいに、かなり高所であるらしい崖の上にいきなり立っていたのだった。
 二人は不思議な心持ちで、来た道を振り返る。先ほどまでの世界はすべて幕を閉じてしまっていた。ところどころ草を生やした岩壁が眼前を塞いでいた。
「ここを離れた方がいいな。向こうからこちら側が見えるのだろうから」ルカラシーはつぶやくと、周囲を見回し警戒しつつ上着のポケットから携帯端末を取りだす。
「登山道かな? 電波が届いていないから場所が特定できない」
「僕が彼女から借りた携帯端末はタムの手下に奪われてしまいました」キッパータックが弱々しく告げると、頷きを送るルカラシー。
 冷たい空気が肌を刺す。洞窟内とはすごい温度差だ。崖の際まで足を進めると、眼下には針葉樹林が広がっていた。高さに目が眩みそうになるものの、落下防止の柵が一応、設置されてある。
 ルカラシーはキッパータックに「地上へ降りましょう」と告げ、下山道を探すために動いた。岩伝いに降りていくような肩幅ほどの細い道を見つけると、キッパータックを促す。鎖の手すりに捕まりながら、二人とも無言で足を動かし続けた。キッパータックは仁科邸から朝食を買いに出た後のことだったのでブルゾンを羽織っていたが、ルカラシーは部屋着の上に綿コートを着ているのみであった。しかも革靴だ。慣れないこと、想像もしていなかったことに脳内は揉みくちゃにされ、悲鳴を上げる体にも鞭を打って、必死で泥棒たちとの距離を稼ぐ。一定の時間が経過すると、ようやく口を開く余裕が出てきた。
「ラウラという私の恋人──霊がいて、彼女が教えてくれたんです」とルカラシーは打ち明けた。「私の友だちがタムに捕まっていると。金色に光る洞口が目に浮かんできたそうで、そこへ行ってほしいと言われ、八達(はったつ)市の山へ車を飛ばしました。言われるままに来てみたら──」
「僕は穹沙(きゅうさ)市の第二番大庭の敷地内からあそこに辿り着きました」キッパータックはルカラシーより先を歩いていたので、時折止まってルカラシーの動きを確認するという休憩を取りつつ答える。「賢いカラスがいて……ガラクタの冷蔵庫に通路が繋がっていることを教えてくれました。あの洞窟の中の通路、いろんな場所に繋がるみたいですね。頭の中で行きたい場所を思い描くと、その道ができるんだそうです。福田江さん……元大庭主で行方不明になっている人がいるんですが、その人もやつらに捕まっているみたいで。助けたかったな」
「そうなんですか? 私たちだけで逃げてきてしまいましたね」
 
 下山がようやく終わり、地上に足をつけると、キッパータックは膝から崩れ落ち手をついた。
「大丈夫ですか?」ルカラシーは携帯端末をコートのポケットにしまって、キッパータックに歩み寄る。「誰か人を探して、ここの住所を聞いてみましょう。庭園に連絡して迎えに来させます」
「け、警察に知らせましょう」起きあがるキッパータック。
「…………」 
 ルカラシーはポケットに手を当てた。「電池が残り少ないので充電したい」
「今すぐ来てもらえば間に合う可能性も……通路が生きているうちなら」
 どこか緩慢な間が二人を支配した。それを生みだしているのはルカラシーだった。キッパータックは意味がわからず戸惑いを浮かべる。すると、ルカラシーの手がようやく動き、キッパータックの前に皺くちゃの短冊が現れた。
「それは?」
 ルカラシーが答える。「洞窟の洞穴のそばに引っかけてあったんです。ほかにもありましたから、おそらく泥棒たちは通路の先がどこに繋がっているか、これに書いていたんじゃないでしょうか?」
 キッパータックは短冊を受け取って皺を伸ばす。「レイサの父親の居場所? 誰だろう」
「タムはやはりフルークさんを探したんだ」独りごちるルカラシー。
「フルークさんって?」
 視界の大部分を山が覆っていた。冷たい風が閃いて、鳥の囀りが空に響いた。
 ルカラシーはカーブする道路の先を指差した。「向こうに建物が見えます。あそこまで行ってみましょう」
「ええ?」わけがわからぬままついていくしかないキッパータック。
 疲れた足で十分ほど歩き、目当ての建物に辿り着く。白くて低い塀で囲まれ、門に「ラクトゥーカ研究所」という小ぶりの表札が埋め込まれていた。深いブルーの四輪駆動の軽自動車が一台、停まっている。
 呼びだしベルを押すと、ガラス戸を押して二人の男が現れ、門を開けてくれた。一人は黒髪を七三に分けて流した恰幅のいい男で、着ている白衣が太鼓腹によって突きでている。もう一人は反対に顔も体もひょろ長で、ライトブルーのシャツの袖をまくり、下は黒のカーゴハーフパンツにサンダル、というラフな格好だった。両方とも若いのか年かさなのかさっぱりわからなかったが、顔や手足を泥で汚したただならぬ雰囲気の客人に、なにかを察してくれたようだった。
 キッパータックは開口一番、「トイレを貸してください」と言った。二人は研究所内へ通してもらい、ルカラシーはカウンター前の革のベンチに座った。キッパータックを待つ間、室内をそっと窺う。真っ白い壁は額に入れられた野菜の写真や賞状で埋め尽くされていた。部屋の中央には四つのデスクをくっつけてできた島があり、PCや資料のファイルがどっさり並べられていた。カウンターには名も知れぬ小魚が泳ぐ水槽が一つ。意匠を凝らした文字盤の壁掛け時計に、ショーケース型冷蔵庫もある。やがてキッパータックが戻ってきて、同時にひょろ長の方がおしぼりとコーヒーを盆に乗せ、運んできた。
「どこかで見たことがある方と思ったら」と白衣の男が口を切った。「ルカラシー・ドルゴンズさんですよね? ドルゴンズ庭園の大庭主の」
 ルカラシーが頷くと、二人は自分たちを紹介しだした。白衣の男は「ここの所長のクニゲート・ワンです」と名乗った。ひょろ長は「百木(ももき)と言います」と名字だけ告げた。
 ルカラシーは携帯端末の画面に目を落として言った。「ラクトゥーカ研究所……ここは魚人(ぎょじん)地区?」
「はい」にこやかな表情で答えるワン。「規模は小さいのですが、大学機関や民間企業からも援助をいただいておりまして、生物資源の研究を行っております。百木君は私の助手です」
 中央都にいることが判明し表情が解けるルカラシー。「突然押しかけてきて、不躾なお願いで申し訳ないのですが、私の携帯端末を充電させてもらえないでしょうか? それと、迎えを呼ぶつもりですので、それまでここで待たせてもらえると助かります」
「構いませんよ。ここは私たち二人だけですし、ドルゴンズさんなら知れた方だ」ワンはルカラシーの携帯端末を受け取り、百木に手渡す。
 ワンと百木がカウンターから離れると、「警察には連絡しないんですか?」とキッパータックが慌て気味に訊く。
 ルカラシーは小さく首を振る。「ここではやめておきましょう。ワンさんたちに迷惑がかかる。あなたはここにいて、私の家の者が迎えに来たら穹沙市のご自宅へ戻られてください」
「ドルゴンズさんはどうするんです?」
 ルカラシーは目の端でワンと百木の姿を追いながら答える。「携帯端末の充電が終わったら、私はここを出て例の山へ戻ります。そこでドルゴンズ庭園と警察に連絡を入れます」
「ドルゴンズさんたち」百木が給湯室の戸口から顔を出す。手にはカップラーメンが握られている。「少し早いお昼ですが、ご一緒にどうですかね? お腹空いていませんか?」

 ワンも百木も、自分たちからはなにも訊くまい、というスタンスでいてくれるようだった。デスクの空きスペースとカウンターの上にそれぞれ、ラーメンのカップが置かれた。百木は自分たちが育てた葉野菜のサラダも供してくれた。といっても、適当にちぎったレタスに塩と酢を振りかけただけのものであったが。
 キッパータックもルカラシーも朝食抜きであったため、熱々のカップラーメンが極上の食べ物に変化していた。スープまできれいに飲み干し、手製のレタスも遠慮なくいただく。
「よく考えりゃ、天下のルカラシー・ドルゴンズさんにバーゲンで買ったカップラーメンを提供するなんて、我々は実に大胆なことをやってしまったかもな」ワンが突然ケタケタと笑う。
「黒トリュフのスープよりおいしいと思いましたよ」とルカラシーは真顔で返答した。「レタスも最高の瑞々しさです。食事というものはいつどこで、誰と食べるのかも重要だと言いますが、まさに今それ、という気がします。おかげで疲れた体が癒やされました」
「それはよかった」ワンも百木も言葉の黒トリュフをちょうだいした、というような表情になった。
 食事が済むと、キッパータックは疲れと安堵からうつらうつらしてきた。自分のデスクに着いていた百木が、「充電が終わったようですよ」と携帯端末を取りあげる。
 ルカラシーはトイレを借りに席を立っていて、蒼ざめた顔で戻ってきた。
「どうしました?」
「この絵……」ルカラシーは額入りの絵画を握りしめていた。
「ああ、それですか?」ワンがデスクトップPCの画面から顔を離し、教えた。「ジャックさんという我々の仲間が描いたものです」
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登場人物紹介

ヒューゴ・カミヤマ・キッパータック。砂の滝がある第4大庭の管理人。好きな食べ物・魚の缶詰。好きな生き物・アダンソンハエトリ(蜘蛛)。清掃業も営んでいる。

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