蜘蛛を数える(5)──体重計、恋、森

文字数 5,200文字

 草堂(そうどう)二本松(にほんまつ)が帰ってから、キッパータックは上着を引っかけ、車で精衛(せいえい)地区の第七番大庭(だいてい)へ向かった。よく清掃の依頼をもらっているイギリス式庭園、双子の美人大庭主・(みなみ)楓子(かえでこ)譲羽(ゆずりは)のところだった。
 庭園へ着くと譲羽だけがいて、来客スペースへ通された。お菓子の絵が描かれたノートや包装紙の見本帳などがテーブルに散らばっていて、やや忙しげな雰囲気だった。
 キッパータックは長居してはいけないと感じ、切りだした。「あの、今日は遊びに来たわけじゃなくて、体重計を借りに来たんだ。僕のうちにはないので」
「体重計?」お茶の用意をしようと動いていた譲羽だった。「あら、キッパーさんも体重が気になりだしたの? そんなに()せてたら私でも体重計は闇に葬り去るけど」
「いや、実は、蜘蛛の重さを計りたいんだよ。変身したとき、どれくらいの重さになるのか気になって。今後のために……」警察が絡んでいることは秘密なので、ぼんやりごまかす。
「蜘、蛛?」譲羽はやけにゆっくりと発音した。「あの、例の蜘蛛をまた石像にして、それを体重計に乗せるってこと?」
「まだ石像にするかどうかは決めてないけど」
「ちょっと待って」譲羽はキッパータックへてのひらを向けて、考えた。「それはだめな予感がして……そして確信に変わったわ。体重計は私だけが乗るんじゃないの、姉も使うのよ。姉はあのとき、五十嵐さんちのパーティーで、蜘蛛が変身した石像にみんな感心してたのに半径三メートルの空間にさえも近づこうとしなかったわ。私はさすがにすごいと感動したけどね。あれはまさしく石像で、少しも蜘蛛っぽいところはなかったもの。だけど、それが私たちの使っている体重計に乗るということになったら、やっぱり──」
「蜘蛛が直接触れないようにシートを敷くつもりだよ。消毒もするし……」
「そうね、でも、いや……」
 譲羽は紙箱にシートを敷くとそこにクッキーを無造作に詰め込み、それをキッパータックに押しつけてきた。「急にクッキーを差しあげたくなったわ。キッパーさんはこれを持って帰っておうちで食べて。ごめんなさい。姉は庭でお客様の相手をしてるけど、キッパーさんは体重計の類は一つも借りずに帰ったと伝えておくから。このことで私たちの友情がどうにかなることはないし、体重計以外のものであれば、私たちはいつでも利子なしで喜んでお貸しするつもりがあるということをどうか、憶えておいてほしいの」

 キッパータックは車の中でため息をついた。樹伸(きのぶ)のことも思い浮かんだが、奥さんがいる。樹伸の奥さんも蜘蛛嫌いであったとしたら、きっと借りるのはよくないだろう。頭の中をいろいろな友人・知人の顔が流れる。清掃の仕事のことにも考えが及んで、そのことで一人思い出した。
仁科(にしな)さんはどうだろう?」

 不死鳥(フェニックス)地区の第二番大庭、アトラクション庭園の主である仁科まきえは年齢不詳で、見た目から六十歳くらいだろうと思われていたが、樹伸と同じく百歳を超えているのではないかとも言われていた。それでいて遊び好きで子ども好きで無邪気な性質から、「永遠の童女」という異名がいかにも似合っているのだった。有名な「品物の森」は、彼女がおそらく自分自身でさえも何年前になるのかわからなくなっている幼少時代から集めているとされる雑多な器物で構成された人工の森だった。規模も段階的に拡大し、今では家四軒分くらいはあるだろうと言われていた。そこに迷い込み行方不明になったと言われていたタム・ゼブラスソーンも、実はタムではなく、タムと間違われても仕方がないような素性の者──つまり別の泥棒であった。その男は──五十代の無職の男だったのだが──生活に困っていて、品物の森をこっそり伐採して勝手に売ることを考えだした。実際いくつか成功し、これだけ物が溢れていれば一つ二つずつ消えていく物があってもばれないだろうし、これをライフワークとして今後も続けていくことさえ可能かもしれないと思ったらしい。男はいつも観光客に紛れて来ていたのでまきえもしばらく気づかなかった。しかしあるとき、男は森に佇み、一体、ずっと奥はどうなっているのだろうと、ふと感慨に打たれた。遊びに来ていた子どもたちが興味津々で覗きにきても、母親から「だめよ、ここは」と連れ戻されていくのを何度も見た。「仁科さんでさえも中で迷って数時間出られなかったらしいわよ」という声も聞いた。男は怪しまれたくなかったから、いつも森の入口付近の品物を横目でさっと物色し、適当に懐に忍び込ませていた。その日だけ、魔が差したのか──いや、この男にかぎってはずっと前から魔が差していると言わざるを得なかったが──どうしても視界に届いていない森の深奥というものが気になりだして、もしかするとあの婆さん(まきえ)、すごいお宝を眠らせていて、それを隠すためにガラクタで周りを囲みはじめたんじゃないか、という想像が築かれたのだった。彼は彼なりの好奇心で、自らの品物(邪念)の森へ足を踏み入れてしまった。
 まきえは「助けてくれ〜」という男の泣き声がしたの、と警察に通報した。時間にして十三時間くらいの遭難だったが、彼は涙を流し、体のあちこちに擦過傷をこしらえていた。「目の前で、急に物が雪崩(なだれ)を起こして……」ガタガタ震え、しばらく留置場(りゅうちじょう)でも悪夢にうなされていたという。
 なので今は無人の森である。そして入口にはこう記されてある。

「ここにある品物がほしい方は大庭主にご連絡ください。勝手に抜き取ってしまうと森が崩れる恐れがあり大変危険です。お子さんも入り込まないようにしてください。大人でさえも何度も遭難しています」

 キッパータックがやってくると、まきえは喜んで出迎えた。まきえの庭園のメインである遊具、その清掃をいつもキッパータックに依頼していた。
 キッパータックは言った。「実は、蜘蛛の体重を計りたいんです。普通の人間用の体重計でいいんですが、お借りできないでしょうか」
「体重計ね、ちょっと待ってて」
 まきえが扉を開けて出ていき、ダイニングルームにキッパータックは一人になった。いつもどおり、壁際に置いてある木のベンチに大きなうさぎのぬいぐるみが座っていて、子どもの顔ほどの大きさはありそうな二つの瞳が彼を見ている。
 仕事の後、キッパータックはよくここに呼ばれて、まきえと一緒にお昼ご飯を食べた。まきえ特製の日本食をごちそうになったこともあれば、二人同時に別々のピッツァ屋に電話注文して、どちらが先に来るか勝負しましょう、と言われたこともあった。そういうまきえの屈託のない明るさがキッパータックはとても好きだった。一度、仕事の際に蜘蛛を連れてきて、まきえに蜘蛛の変身を見せたことがあった。まきえは変身を解いた蜘蛛を自分のてのひらに乗せ、こう言った。「前に中央都でね、ベラスケスさんのショーを見たことがあったわ。この蜘蛛ちゃんたちが火の輪くぐりをしてたの。ぴょんぴょんぴょんって、上手に飛んでたけど、なんだかかわいそうだったし、失敗して大火傷することもあるんじゃないかって、すごく心配になったわ。でも、あなたの仕事は清掃業だから、蜘蛛ちゃんたちがそんな仕事をすることはもうないのよね」
 
 またあるとき、まきえは「私はもう、生まれたときから独身だったわね」と突然独特の表現で身の上話をしだした。たった一つの人生しか生きていないことが信じられないくらいに長い年月の記憶があるそうだが、それでも異性をどうしようもなく好きになったのはたった一度だけだと言った。その一度に、「二人」を好きになることができると思う? とキッパータックに訊いてきた。
 キッパータックは首をかしげた。まきえはその反応を気にすることなく続けた。相手は奥さんと死別した大庭主だった(これを聞いたとき、キッパータックはまさか樹伸のことじゃ……と思ったが、違った)。そのとき相手は五十九歳で、まきえはその男性と齟齬(そご)なく心を通い合わせられるだけの年齢だった。男性には息子がいたが、日本へ行ったっきり戻ってこない。これからどんどん年を取っていくのに、たった一人で庭園を切り盛りしていくのは、今はつらくなくてもやがてつらいと感じるかもしれない、と男性は言った。想像するとつらいと言うより寂しいのだった。想像だけで寂しい気持ちになるのに、実際の寂しさに耐えられる気がしない。まきえも大庭主でこの仕事に精通しているし、結婚して一緒にやっていく気はないだろうかと持ちかけられた。籍を入れるのがめんどうであれば、そばにいてくれるだけでもいいのだ、という、思いやりに満ちた提案だったとまきえは振り返る。
「でもね、私はここがあるじゃない? 相手の大庭は牛頭鬼(ミノタウロス)地区だったのよ。まさに、穹沙(きゅうさ)市の西端と東端。私の年で毎日通うなんて無理だし、私はそのとき本気で、第二番大庭を別の誰かに任せることも考えたのだけれど……」
「牛頭鬼地区……」キッパータックは考えた。「行ったことはないですが、たしか、地下庭園でしたよね?」
「そうなの。洞窟があって、とっても薄気味悪いところよ」
 それ以上、まきえは話を継ぐことはしなかった。男性の申し出を受け入れられなかったのか、自分の愛した庭園を手放せなかったのか。

 まきえが戻ってきた。「ふー、やれやれ、お待たせしたわね。品物の森まで取りに行ってたのよ。体重計だと思ってたものが運動器具だったり血圧計だったりしたもので、時間がかかってしまったわ。汚れはさっと落としたから。よかったら差しあげるわよ」
「すみません、助かります」キッパータックは受け取った。アナログ式の体重計で、若干錆びついてはいたが、壊れてはなさそうだった。
 まきえは額の汗をガーゼのハンカチで拭き取ると、室内に戻ってきたというのに帽子を被りはじめた。彼女は食事のときにたった一人でも正装する趣味があるのだ。「さあて、お茶にしましょうか」
「あの……仁科さん、僕は帰ります。急いで警察に報告しなければならないので」まきえには話しても大丈夫だろうと、そう言った。
「まあ、警察?」
「なんにでも変身する蜘蛛は警察にとっては危険なんだそうです」
 二人は頭の中で、キッパータックの蜘蛛の、危険とは程遠いように見えるかわいらしいフォルムを浮かべ、それにより引きだされたにんまり、という笑顔を互いに見合った。遠くで雷鳴にも似たクラッシュ音が響いてすぐにかき消されはしたのだが。
「あの音は……」
「やだ。品物の森ね」まきえははっとした。
「僕のために体重計を抜き取ったからですね? 雪崩が起きたのでは?」
「気になさらないで、キッパータックさん」まきえのいたずらっぽい笑顔は復帰した。「崩れてる方がかえって盗難防止になるのよ、あの森は。とてもリアルな『落石注意!』の看板って感じで、誰も怯えて近づかないわ。私以外はね」


 
 第八番大庭、森林庭園。屋敷の裏にあるガーデンテーブルで、コンビニエンスストアのカップ入りサラダを食べている(さかい)(かない)。勝手口から庭主・馴鹿布(なれかっぷ)義実(よしみ)が出てきて近づいてくる。
「叶君。食事中すまない、ちょっといいかな?」
「ああ、はい」叶は唇についたマヨネーズを指で拭き取る。
「二本松君から連絡があってね。君、キッパータック氏に尾行がばれてる」
「は、はあ?」叶はカップとプラスティックのフォークを置いて椅子から立ちあがった。
 馴鹿布は(かす)かなため息をつく。「あれほど気をつけろと言ったんだがな。そこで、キッパータック氏はもういいから、別の大庭主を調査してくれないかな」
「ええー……」
「それは、なんに対する不満なのかな?」
「尾行全般です」
「なるほど。それほど苦手意識があるとは知らなかった。早めに言ってほしかったな」
 馴鹿布は携帯端末を取りだし、手早く操作した。「よし、予定を少し変更しよう。君のためにスケジュールを空ける。もう一度尾行の訓練をやり直しだ」
「ええー……。あ、これも尾行全般に対する心の声ということで」
「我々は大庭主の平和のためにやってるんだぞ」

 その後、誰もいない森の中で、木々の間をくるくると走り抜ける叶の姿があった。馴鹿布はこれで俊敏性を養えると信じていた。彼自身も、年齢が原因となる体力の衰えを、この訓練によってカバーしてきたのだ。
 馴鹿布の努力が報われる日が来るのかどうか、今はわからないが、静かな森はその身を投じて協力していた。そこにあるのは心安らぐ自然ではなく、楽に通り抜けたいと思う体の前に必ず現れる冷たい険阻(けんそ)であった。森は絞られる肺に清々しい空気も与えた。まさに飴と鞭。タムがどれほどの泥棒であっても、この森、そして人の懸命さまで盗むことはできないだろう。この日々を崩すことはできないはずだ。馴鹿布は改めて森の偉大さに打たれ、すばらしい緑の香気を噛みしめていた。



第八話「蜘蛛を数える」終わり
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登場人物紹介

ヒューゴ・カミヤマ・キッパータック。砂の滝がある第4大庭の管理人。好きな食べ物・魚の缶詰。好きな生き物・アダンソンハエトリ(蜘蛛)。清掃業も営んでいる。

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