蜘蛛を飼う男(3)──ベラスケス事件とは

文字数 2,220文字

 事情を聞いたキッパータックは説明した。「蜘蛛(くも)たちに悪気はないのです。彼らはあのように変身が得意で、なんにでも一瞬で変身してしまうのです。おそらく、あなたが水を飲みたがっていることを察して、そういう姿を現してしまったのでしょう」

 樹伸(きのぶ)は再び客間に通された。キッパータックは水槽の一つ一つを覗き、壺にかぶせてある板を取って中身をチェックした。壺も水槽と同様に蜘蛛の住み処らしい。
「この蜘蛛は、僕の清掃の師匠でもある大道芸人のダニエル・ベラスケス氏から譲り受けたものなんです。ベラスケスさん一家はまさにこの蜘蛛の曲芸で名を馳せたらしいんですが、娘さんが悪用して警察に捕まってしまい、それが原因で芸の世界から足を洗われました。罪滅ぼしでやっていた彼らの清掃の仕事をたまたま目にして、そのすごい技術に感動しまして、特別に伝授してもらったんです。それが縁で、蜘蛛のことも任されてしまって」
「だったら君も蜘蛛の曲芸をやればいいんじゃないか?」と樹伸は言った。「ちょっと気持ち悪いが、おもしろがるやつもいるかも。立派な観光資源になるよ。ここを盛り上げて観光客を増やすんだ。あの美しい滝もあるし」
「蜘蛛の曲芸なんて見せられません。僕にはできない」
「どうして? 見事な変身ぶりだったぞ。本物のグラスだと思ったもの――手に取るまではね」
 キッパータックは水槽のそばに立ったまま、重苦しく丸めた肩を見せているだけだった。
 樹伸は言った。「なにも清掃の仕事が悪いとは思わない。しかし私たちは東アジアの自然を、すばらしい国の財産を、守るという立派な任務を与えられてるんだ。ちゃんと活用すれば、副業など持たずとも大庭だけで生活していける」
「僕は清掃の仕事が好きなんです。蜘蛛の、ためでもあります……」
「蜘蛛がそんなに金食い虫だとでも?」
 キッパータックは財布を取りだすと、紙幣を一枚抜いてテーブルに置いた。「これを見てください」
 樹伸が視線を落とすと、金だと思っていたものがあっという間に長方形に並んだ黒い粒々に変わり、床を走り去る集団へと変わった。
「今のも蜘蛛か!」
 キッパータックは語った。「ダニエルさんの娘さんはこれで警察に捕まりました。蜘蛛たちに札束の姿になるよう命じて、本物の札束と入れ替えたんです。一家はその前からときどき蜘蛛のお金を使って生活をしていたようです。蜘蛛たちは夜間、元の姿に戻り、人目をかいくぐってレジや金庫から脱出してくる。もちろん道中踏み潰されたり鳥に食べられたりと数も減るわけですが、蜘蛛たちは賢く、なぜか減った分だけ繁殖するので頭数が足りなくなることもありません。芸もちゃんと新しく生まれた蜘蛛に継承されている。そうなると、いくらでも偽造することができます。一家が住んでいた町では帳簿の額が合わなくなることが間々あったでしょう。わずかであれば人は勘違いで済ませることもできる。しかし、娘さんは大規模にやってしまった――」悲しげな伏し目が樹伸の正面に移ってきて腰をおろした。「入れ替えに使った蜘蛛のお金が悪い連中の手に渡ってしまったんです。一部はゴロツキが両手に握ったまま沼の底。一部は恐怖で失神したやくざ者の周りで死に絶えていたそうです。残りの蜘蛛にしても戻ってこなかったことを思えばおそらくは……。それで、もう蜘蛛たちを自由にしてやってほしい――そう一家に頼まれて、僕も蜘蛛を森へ放ちました。でもなぜか戻ってきた。そして、お金に変身するのをやめないんです。この蜘蛛たちは人間に育てられた。僕の言葉がわかるみたいだし、気持ちまで読めるようなんです。人間にはお金が重要だと思ってるんでしょうね。僕の財布に気づくといつも入り込んでいます。僕はもちろん、蜘蛛のお金なんか使ったことはありません。国の補助金だけじゃなくて、他にも収入があるんだから、彼らにそんな変身は必要ないってわからせたいんですが……」
「蜘蛛にお金になるなって命令できないのか?」樹伸は呆れていた。「だったらなおさらここを観光名所として発展させるってことに賛成となるんだけどな」
 キッパータックは頭を掻いた。「僕にはその手の知恵がまるで浮かんでこないんです。観光局の担当者にも言われました。もっと砂の滝を宣伝するようにとかなんとか……」
「そうだろうとも」樹伸はようやく自分と意見を一にするものが現れたと喜び、てのひらを打った。「写真を撮ってインターネットにあげるといい。私は百三十年生きてきた。いろんな大庭を見てきたが、あんな美しい滝は出会ったことがないもの」
「ひゃくさんじゅうねん!? 若取さん、あなた百三十歳なんですか?」キッパータックは驚いた。「六十歳くらいかと……」
「つまらんお世辞だ」樹伸はむくれた。「まあ、君に芸などなくていい。あの砂の滝と蜘蛛たちがいればね。大庭主としてちゃんと活動してみなさいよ」
「考えてみます」
 昼食を一緒にいかがですか? と誘われたものの、キッパータックが戸棚の缶詰を物色しはじめたので樹伸は遠慮して帰ることにした。自分の庭に続々来ているであろう客人のことを考えれば長居はしていられない。それでも樹伸は、またキッパータックの大庭へ遊びにきてもいいような気がしていた。きっと自分はまた来るだろう。親心か酔狂か。なんにせよ、新しい大庭主仲間ができた喜びが生まれていた。平和の合成物質が増えたということかもしれない。


第1話「蜘蛛を飼う男」終わり
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登場人物紹介

ヒューゴ・カミヤマ・キッパータック。砂の滝がある第4大庭の管理人。好きな食べ物・魚の缶詰。好きな生き物・アダンソンハエトリ(蜘蛛)。清掃業も営んでいる。

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