第4話 極上のスープ作りを手伝う
文字数 3,534文字
東アジア警察の疑念によっていじくり回され病んでしまったとみえるキッパータックのペットの蜘蛛 。キッパータックはその蜘蛛だけでなく、ほかのすべての蜘蛛も自宅近くの森へ放してやることにした。過去にもそうやって自然に返したことは何度かあった。人間と呼応し常に曲芸や変身の必要性に駆られる奇抜な日々から解放してやろうとそうしたわけであったが、蜘蛛たちはまるで休暇を取って帰省しただけ――というように必ずキッパータックの下に戻ってきた。またそうなったとしても、それはそれで元の共同生活に戻るだけ。蜘蛛たちが決めてくれればいい。とにかく元気を取り戻してくれることだけが願いだったから、彼らの住まいが森でも水槽の中でも、キッパータックにとってはどちらでも構わなかった。
何年ぶりかの蜘蛛のいない生活。キッパータックは一角獣 地区へと車を走らせていた。その日、約束していた相手はピッポ・ガルフォネオージ。彼の大庭 へと向かっていたのだ。いつも全身に包帯を巻いている彼は、自分は透明人間だと吹聴 する変わり者で、五十嵐邸でのパーティー以来仲良くなって、今回も、樹伸 経由でキッパータックと蜘蛛の憔悴 を知り、気分転換にどうかと自宅に誘ってくれたのだった。
古代遺跡を思わせる砂色をした無骨 な門柱と、伝説の魔獣でも閉じ込めていそうな厳めしい鉄製の門。その前に車を停めると、巨人の国に誘 われている気分だった。案内板に簡略化された地図が描かれていて、それだけ見てもかなり広大な面積を持つ庭だとわかる。
穹沙 市(一角獣地区)・第五番大庭
『様々な気候区分が複雑に入り交じり、独特の植生 ・鉱物で構成された丘は、悠久の時を感じさせ、人外の野性味に溢 れ、まさに地球規模のパノラマといった様相を呈 している。とりわけ人気なのは、蜜 が浮く石化した不思議な
インターフォンがなかったので呼び出しの番号に電話をかけた。
「鍵はかかってない。自分で門を開けて入ってきてくれ。車は適当にその辺に停めてくれたらいいよ」との返事だった。
門からほど近いところは開けた土地で、案内なしでも彼の待つ住居が見えた。それは実にこぢんまりとしていて、つい先月建ったばかりだ、というように真新しい清潔な印象だった。中へ入ると、六畳ほどのキッチンで主はウェルカム・ドリンクを準備していた。
「オレンジジュースでいいかな? 昨日買い出しに行ったからいろいろあるよ。冷たいミルクとかサイダーも」
「ジュースをもらおうかな」キッパータックは木の椅子に腰をおろした。
テーブルには物がごちゃごちゃと置かれていた。「ごめん、いろいろ整理をしていてね」
ピッポは品物の配置をうまく変えることでキッパータックの為のスペースを作りだし、そこに布製のコースター、グラスを置いた。彼は英文がスタイリッシュに描かれたブルーのTシャツにカーゴパンツという格好で、被服 を受けていない部分はいつもどおり包帯にくるまれている。彼としゃべるとき、白い顔面のどこを見たらいいのかいつも迷う。目があると思われるところへ、声が躍りでてくる辺りへ、漫然と視線を向ける感じだ。
ピッポは言った。「君はパーティーのとき、料理は苦手だって言ってたね。缶詰の魚が好物なんだって。今日、僕は例のスープを作らなきゃならないんだ。それを君に手伝ってもらいたいと思ってる。といっても、料理自体は全部僕がやる。一緒にやるのは材料集めだ。結構ハードだから手伝いがいると助かるんだ。いいかな?」
「材料集めって、お店で買わないの?」
ピッポはその質問がこの上なくうれしい、というふうに、手に取った調味料の箱をぽんと宙に弾いて華麗にキャッチした。「流通の神は断固却下とのたまうだろうね。僕んちの庭でしか採れず、若干の冒険も伴 う品が材料とあってはね。でもそのおかげで、僕のスープはどこでも手に入らない、唯一無二の一品となれたわけだ――あちこちで提供してるから、結構知られたものになっちゃったけどね」
ステンレス台に乗っていた卓上カレンダーを取ると、それをキッパータックに見せた。
「明日は鳳凰 地区の学校のバザーに出品する。お金がもらえる場合もあるけれど、ほとんどはボランティア、無償提供だよ。高齢者施設に児童養護施設、各地区の祭りやイベント……」
カレンダーに書き込まれた提供先の名称を見てもわかった。
「予定がいっぱいで、大忙しだね。たしかにすごく美味だった。でもボランティアで出してるなんて」
ピッポはくるりと背を向け、明かり取りの窓の方を見やった。「そこまでやるのも僕なりに理由があるんだ。僕は四人兄弟の三番目で、一番病弱でおとなしくって、存在感のない子どもだったんだ。空気みたいなやつっていうのかな。それで、人間の骨子 が形成されるべき思春期に自分を見失ってしまって、とうとう透明人間になってしまった。だから、なにか自分をめいっぱい表現できるツールを求めたんだね。自分自身もなにかから元気をもらわないとどうにも苦しい状態だった。『包帯を巻いてるいかれたピッポ』じゃなくて、『花を愛するジェントルマンなピッポ』とか『バイオリンと旅する陽気なピッポ』とかね。なんとなく、寂しいときによく見ていた映画のイメージかな。人はいろんなものになぐさめられているんだとわかる。実際、いろんなものに助けられてる。
で、ここの前の大庭主 と知り合って、自分はイギリスに住むことにしたから、代わりに庭主になってくれと頼まれ、庭番ものんびりした職業でよさそうだなって思ったんだけど、このように荒涼とした土地だろ? 仙人や魔法使いならいいだろうけどさ、僕が欲 していた輝きがない。なんとかできないかと思って、庭の方はいじれなかったから、そこにあるものでなにか作ろうということになり、三年くらい試行錯誤 してスープを完成させたってわけ。無償で提供してるのも一種の宣伝だね。ただそうやって努力しても、この前の穹沙市大庭人気投票では僕の庭、第十五位だったがね」(穹沙市に大庭は二十か所ある)。
「僕の庭は十八位だったな。下から三番目だ」とキッパータックは言った。
ピッポは顎 にかかった包帯が浮くほど高らかに笑った。「はっはっ。君も考えなきゃならないね。せっかくの砂の滝もそれじゃあ枯渇 しちゃうよ」
二人はその後、キッパータックの蜘蛛の話などをしたが、ピッポがそろそろ材料を採取に行きたいと言ったので家を出ることにした。
キッパータックが先に出て待っていると、ピッポは大きなリュックを背負い、立ち乗りの電動小型四輪車で現れた。
「君の分もあるよ」ゆるやかに停まると、家の横のカーポートを指差した。「なにかに乗ってかないと、土地が広すぎるから行くだけで疲れちゃうんだ」
「かっこいい」キッパータックも四輪車を取りにいって、ぎこちない運転にはなったがピッポの真横まで来た。
「車より手軽でいいだろ? これ中古なんだぜ。日本のモーターショーで使われた展示品だったからお安く買えたんだ」
二台でしばらく進むと林が現れて、木々に挟まれた陰の道を走っていくことになった。気温がぐっと下がった気がした。ピッポは大方をオリーブ色が占める四囲 を見回しながら説明した。「ほとんど純林っていうのかな。このように広大でいろいろあるように見えて、実際はほんの数種類の植物しかなくてね。家の周りには果物の木をいくつか植えてみたけど、環境が過酷なもんだから、ぴったり肌に合うってやつしか生き残れないみたいでさ。枯れちゃったんだよね。でもその分、シンプルにまとまった景色が拝 める。こっちが整えてやらなくてもさっぱりと仕上がってる。まあ、若い女性に好評を得られる庭ではないね。映画やドラマの撮影はときたま来るよ。そういった意味では人気最下位の岩手黔 さんの庭と同じだね。一体、どういう内容のドラマなんだか。あまり見たことないけど、ホラーかサスペンスってとこかな」
「こういう雰囲気、僕は嫌いじゃないけどな。国は“荒野風”って表現してるみたいだね。……ところで、これから採りに行くのは野菜なの?」とキッパータックは訊いた。
「ああ、材料の説明がまだだったね。……ん、君、車の運転に慣れてきたじゃないか。スープにはたしかに野菜も入れるけど、それはあくまで具。季節によって変える。野菜くらい店で買ってもいいしね。僕たちが採取するのは味の隠れた主役となる香料だ。絵でいうところの背景に当たる部分さ。背景、余白は重要な骨だよね。それだけで味わうものではないかもしれないけど、選択を誤ったならすべてを損なう可能性もある――あ、そろそろ見えてきた。スープに入れる五つの材料のうちの一つ目だよ」
何年ぶりかの蜘蛛のいない生活。キッパータックは
古代遺跡を思わせる砂色をした
『様々な気候区分が複雑に入り交じり、独特の
くいぜ
の群――』インターフォンがなかったので呼び出しの番号に電話をかけた。
「鍵はかかってない。自分で門を開けて入ってきてくれ。車は適当にその辺に停めてくれたらいいよ」との返事だった。
門からほど近いところは開けた土地で、案内なしでも彼の待つ住居が見えた。それは実にこぢんまりとしていて、つい先月建ったばかりだ、というように真新しい清潔な印象だった。中へ入ると、六畳ほどのキッチンで主はウェルカム・ドリンクを準備していた。
「オレンジジュースでいいかな? 昨日買い出しに行ったからいろいろあるよ。冷たいミルクとかサイダーも」
「ジュースをもらおうかな」キッパータックは木の椅子に腰をおろした。
テーブルには物がごちゃごちゃと置かれていた。「ごめん、いろいろ整理をしていてね」
ピッポは品物の配置をうまく変えることでキッパータックの為のスペースを作りだし、そこに布製のコースター、グラスを置いた。彼は英文がスタイリッシュに描かれたブルーのTシャツにカーゴパンツという格好で、
ピッポは言った。「君はパーティーのとき、料理は苦手だって言ってたね。缶詰の魚が好物なんだって。今日、僕は例のスープを作らなきゃならないんだ。それを君に手伝ってもらいたいと思ってる。といっても、料理自体は全部僕がやる。一緒にやるのは材料集めだ。結構ハードだから手伝いがいると助かるんだ。いいかな?」
「材料集めって、お店で買わないの?」
ピッポはその質問がこの上なくうれしい、というふうに、手に取った調味料の箱をぽんと宙に弾いて華麗にキャッチした。「流通の神は断固却下とのたまうだろうね。僕んちの庭でしか採れず、若干の冒険も
ステンレス台に乗っていた卓上カレンダーを取ると、それをキッパータックに見せた。
「明日は
カレンダーに書き込まれた提供先の名称を見てもわかった。
「予定がいっぱいで、大忙しだね。たしかにすごく美味だった。でもボランティアで出してるなんて」
ピッポはくるりと背を向け、明かり取りの窓の方を見やった。「そこまでやるのも僕なりに理由があるんだ。僕は四人兄弟の三番目で、一番病弱でおとなしくって、存在感のない子どもだったんだ。空気みたいなやつっていうのかな。それで、人間の
で、ここの前の
「僕の庭は十八位だったな。下から三番目だ」とキッパータックは言った。
ピッポは
二人はその後、キッパータックの蜘蛛の話などをしたが、ピッポがそろそろ材料を採取に行きたいと言ったので家を出ることにした。
キッパータックが先に出て待っていると、ピッポは大きなリュックを背負い、立ち乗りの電動小型四輪車で現れた。
「君の分もあるよ」ゆるやかに停まると、家の横のカーポートを指差した。「なにかに乗ってかないと、土地が広すぎるから行くだけで疲れちゃうんだ」
「かっこいい」キッパータックも四輪車を取りにいって、ぎこちない運転にはなったがピッポの真横まで来た。
「車より手軽でいいだろ? これ中古なんだぜ。日本のモーターショーで使われた展示品だったからお安く買えたんだ」
二台でしばらく進むと林が現れて、木々に挟まれた陰の道を走っていくことになった。気温がぐっと下がった気がした。ピッポは大方をオリーブ色が占める
「こういう雰囲気、僕は嫌いじゃないけどな。国は“荒野風”って表現してるみたいだね。……ところで、これから採りに行くのは野菜なの?」とキッパータックは訊いた。
「ああ、材料の説明がまだだったね。……ん、君、車の運転に慣れてきたじゃないか。スープにはたしかに野菜も入れるけど、それはあくまで具。季節によって変える。野菜くらい店で買ってもいいしね。僕たちが採取するのは味の隠れた主役となる香料だ。絵でいうところの背景に当たる部分さ。背景、余白は重要な骨だよね。それだけで味わうものではないかもしれないけど、選択を誤ったならすべてを損なう可能性もある――あ、そろそろ見えてきた。スープに入れる五つの材料のうちの一つ目だよ」