神酒の失踪(7)──変化

文字数 3,114文字

 あれほど固く閉ざされていた門、人を遠ざけていた大庭主(だいていしゅ)が、目の前にいた。
 水色のパーカーのポケットに手を突っ込んでいる衣妻(いづま)流亜(るあ)。百人が百人「不機嫌そうだ」と鑑定しそうな顔をぶら下げて、三人の客に儀礼的な視線を浴びせた。
 (かない)には「あんた、また来たのか」という挨拶の言葉まであった。
「憶えてくださっているなんて、光栄です」と叶も儀礼的な微笑み(ほとんど薄ら笑い)で返した。「馴鹿布(なれかっぷ)先生は私の上司なので」
「ああ」衣妻は脳内で人物相関図を作成したような顔になる。
 初対面である(ソン)友馬(ユウマ)にはたいした関心を示さず、若き大庭主は庭園の南西にある、(くだん)の「

」まで案内してくれる。
 孫ははじめて足を踏み入れるので、地下修行場跡や呑石洞(どんせきどう)など名所の前を通るたびに声をあげて写真を撮りだす。

 叶は、草が刈り取られすっかり「

」となった空き地を放心して眺めた。もし本当に神酒(みき)福田江(ふくだえ)がここにあった植物を熱心に観察していたのだとしたら、今の姿にがっかりすることだろう。視界が開けたことで、背後のごつごつした岩壁が剥きだしになっていた。フィカス・グレープレインの林を諦めるほどの別の魅力とは、なんだろう?
 叶と孫が空き地に集中している間、馴鹿布は衣妻と会話していた。
「神酒さんからなにか連絡は?」
「いいえ」と答える衣妻。「やっぱり外国に行ってるのかな、仕事で」
「それでもメールくらいはできるだろうに。身内の話を聞いたことは?」
「妹がいるって言ってたような……。あと、あの人には日本に彼女が」衣妻はそこで言葉を切り、突然駆けだすと「キプカ!」と声をあげた。そして四人がいるところへのっそり歩いてきた黒猫を抱きあげる。「おまえ、心配したんだぞ」
 ミャー、と一声返事する猫。
「そういえば、ドーベルマンも飼っていたわよね?」と、黒猫の体についた枯れ草を取り除いてやっている衣妻に叶は訊いた。
「よく知ってんな」衣妻は不審そうな目を投げてよこす。
 あのとき私は老婆だったけれども……と叶は思ったものの、へたにごまかさず知らん顔しておくことにした。衣妻は馴鹿布には心を開いているように見える。おばあちゃん子ではなくて「おじいちゃん子」だったか?

「あの、」と衣妻が伏し目がちになって言った。「この前、森林庭園にタム・ゼブラスソーンが来たんだって? 警察が見回りしてても突破して来るんだろ?」
「突破っていうか、警備員が襲われたわ」と答える叶。「ここにはまだタムは来ていなかったわね。外出中に襲われた人もいるから、あなたみたいに屋内にいる方が安全かも。ホームセキュリティーをとりあえず万全にして、ドーベルマンがいるんだったら──」
「神酒さん、タムにさらわれたんじゃないよな?」
 不安をさらした若者に虚を衝かれて、三人は顔を見合わせる。
「レイサさんもさらわれたのかもしれませんよ!」と孫が叫ぶ。
「そ、それはないと思うわよ」と叶が言った。「タムは襲った庭には必ず『犯行声明文』を残すのよ。ありがたいことに

だから。それに大庭主を標的にしてるから、もし神酒さんをさらったなら、それをあなたに知らせてショックを受けるように(あお)ってくるはずよ」
「そうか……」衣妻は腕の中の黒猫を見つめて、しばらく思案に浸っていたが、やがて落ち着いたのか三人に言う。「母親も心配してるから、おれ、屋内に戻るよ。おれはフィカス・グレープレインについてはくわしくないんだ。だからあんたらも、あとは広潟(ひろかた)さんに訊いてくれよ」
「私たちはフィカス・グレープレインに用があるのではなく、神酒さんのことを探しているんだ」馴鹿布が衣妻に向かって告げた。「彼がタムにさらわれたんじゃないとしても、近くに身内がいない状態で、このままずっと連絡が取れないということなら、警察に知らせることも考えた方がいいかもしれん。彼の最近の様子には明らかに変化が見られた。大庭調査会もやめたかやめさせられたかだ。恋人とも別れている」
「え?」衣妻の目縁(まぶち)は大きく開いて、馴鹿布を見返した。
 道を戻りはじめる大庭主。三人もついていく。
 叶が質問する。「福田江さんは今、どうしているの?」
「ずっと家にいるみたいだ。新しい介護士さんに変わってからはここには来てないよ。レイサさんが倒れたことでショックを受けてるって」
「目の前で倒れたってこと?」
 衣妻がそれについても語りだした。「五月くらいだったかな。いつもどおり福田江のおっさんと一緒に来て……。おれ、その日も漫画の仕事で忙しかったから、ずっと家にこもって作業してたんだけど、空気を吸いに外に出たら、福田江のおっさんが一人で車椅子を操作して庭から戻ってきて。それで、『レイサさんは?』って訊いたら、『レイサは倒れた』って言ったんだ。『どこで?』って慌てて訊いたら、『洞窟』って言うから、呑石洞(どんせきどう)を探した。でも、レイサさんはどこにもいなかった。タムのことがあるから、警察に知らせようと思った。そしたら、レイサさんの知り合いを名乗る妙な男が訪ねてきて、『レイサは気分が悪くなって病院へ行った。福田江さんは私が代わりに連れて帰る』って言って、福田江のおっさんと一緒に帰っていった」
「その知り合いの男、怪しい!」と孫が言う。「福田江さんを渡して大丈夫だったのですか?」
「五月の話よね? それ」と叶が、孫にあまりしゃべらせまいと慌てて確認を行う。「ということは、その後レイサさんは戻ってきたってことでしょ?」
「そうだけど、思えばあのときからレイサさん、元気がなくなった気がする」衣妻は邸宅の掃き出し窓に寄って、その横に作られた猫用の出入口を開けて、キプカを中へ押し込んだ。
「福田江さんの家はどちらに?」と訊く叶。
「この近くだよ。セリニ住宅公園の前のタウンハウスに住んでる」
 二人へ向けた叶の目は「福田江さんを訪ねましょう」と告げていた。

 三人は衣妻と別れると、外に停めていた馴鹿布の車に戻る。ハンドルを握るのは叶で、馴鹿布は助手席。孫は後部座席に着く。
「ミキさんって女性かと思いきや、男性でしたか」と孫が話す。「あの、たまに地下庭園に来ていた、羽振りのよさそうな五十代くらいの紳士ですね?」
「あなた地下庭園を張り込んでたんでしょ?」ステアリングを力強く握って、スピードも飛ばし気味にしながら叶が訊く。「神酒さんはどんな感じだった? 福田江さんと一緒に行動してた? それとも一人で来てたの?」
「一人でしたね」孫は思い出しながら答える。「でも福田江さん、レイサさんと一緒に出てきて、親しそうに話してた姿も見たことあります。あの人も行方不明になっているのか……。それって、レイサさんとともに逃亡したのでは? 二人は男女の関係だったのかもしれない」
「あなたの想像って」叶は疲れた息を吐きだす。「……若干ドラマじみてるわね」
「じゃあ堺さん、あなたは神酒氏をどう捉えていますか?」孫はムキになったように声を張りあげる。「あなた方は神酒氏を怪しんでいる! そうでしょう?」
「…………」
「一体、タム・ゼブラスソーンの一味はどれくらいの組織なのか」馴鹿布が窓の外を見ながらぽつりとつぶやく。「タムにも変化があったことは間違いないだろう。たとえ四、五人くらいであっても所帯があればごたつくことはよくある。報酬や方向性のことで必ず揉める。そこから亀裂が生じる。混乱し修復に走る。元々清らかな目的で繋がっているわけじゃないからな。めいめいが勝手なことを考えて動くんだよ。その脆弱性を突けば、警察は逮捕に動きだせる」
 聴きながら、叶は脳裏に浮かんだ考えを慌てて打ち消す。神酒はそこに関係してはいない。きっと……。
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登場人物紹介

ヒューゴ・カミヤマ・キッパータック。砂の滝がある第4大庭の管理人。好きな食べ物・魚の缶詰。好きな生き物・アダンソンハエトリ(蜘蛛)。清掃業も営んでいる。

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