愛の行動(2)──外側に穴があいたドーナツ

文字数 3,040文字

 それからひと月後の九月、キッパータックはテレビのニュースで樹伸(きのぶ)がタムに襲われたことを知った。
 三か月前、キッパータックら大勢の大庭(だいてい)関係者が参加した大庭研究ツアー。その見学先であったドルゴンズ庭園が直近でタムの被害に遭った場所で、以来、テレビはなにかというとドルゴンズ庭園一色になっていた。必死に情報を伏せようとした警察の努力も虚しく、根も葉もない醜聞を伴いながら連日あれこれ放送されていたのだ。
 ルカラシーの母・セミルの行きつけのジュエリー店の店員や、ルカラシーと二言三言話しただけの花屋の主人までもがマイクを向けられ、関係もないままにタムや事件について考察し、コメンテーターばりの意見をカメラに語った。世間はうんざりしながらも、ほかに選択の余地がないように見続けた。それを一時収束させたのが皮肉にも樹伸の事件となった。

 しばらくの間は警察だけでなく、取材陣などの来訪で話ができるような状態ではないだろうと、キッパータックは若取(わかとり)家に近づくことを遠慮していたが、大分日が経ってから様子を伺いに行ったときにも、樹伸はまだ布団をかぶって寝込んでいるということだった。

 精衛(せいえい)地区の第六番大庭には、高齢の樹伸を陰日向に支えてきた夫人・登紀美(ときみ)がいて、庭師たちに指示を出したり見物客の相手をしたりしていた。これはまあ、いつもの庭園の風景である──肝腎の大庭主(だいていしゅ)がいないだけで。
 キッパータックは出直そうかと迷ったものの、仕事が休みだったこともあり、そこへ交ざった。親子連れの客と夫人と一緒にハーブ園や日本の田舎の自然環境を再現したビオトープなどを回り、その隙間で話を聴いた。
「けがはね、たいしたことないんですよ」登紀美は、きらきらと光を反射させている池に視線を落として言った。
 夫人はおそらく六十代くらい。樹伸と同じく社交的でいつもにこやかに応じてくれるのが、タムの話となるとさすがに声をひそめ、表情を険しくする。
「おでこを打ったのと、手足を縛られて不自然な格好でいたらしいから、腰を少し痛めたというか……」
「暴力を振るわれたんですか?」キッパータックは自分が被害に遭った日のことを思い出す。今でも震えがくるほどだ。不帰(ふき)の山に放りだされ、空中庭園からも放りだされ──。
「いいえ、多分そこまでは……。タムは憎たらしい泥棒だけど凶悪犯じゃないって話だし、さすがに高齢者相手に少しは考えてくれたんじゃないかしら。観光客のフリをして近づいてきたらしいのよ。それですっかりだまされて、睡眠薬入りのジュースを勧められて飲んじゃったみたい。気がついたら車のトランクの中で──」
「トランクですか……」
 登紀美夫人の今度の表情は樹伸へ向けたものになった。「前々から、もう歳なんだから散歩は自分んちの庭の中だけにしておいてよって言っていたのに。近所の人の顔を見て話をするのが楽しみなんだからって、毎朝几帳面にぐるっと回っていたんですよ。きっとタムたちはそれを知って、狙ったのでしょうね」
「庭の方は警察が見回りしてくれてますからね」とキッパータック。タムは一度襲った庭には来ないと言われていたが、それでも自分のところへも度々巡回に来てくれるほどの警戒ぶりだった。警察も必死なのだ。なのにタムの足取りはいまだ掴めていない──。
 最後には夫人も笑顔を見せてくれ、「キッパータックさんが来てくださったって伝えておきますね」と告げた。「ただタムに襲われたことが悔しくて、ふてくされているだけですから、ご心配なく」
 精神面の問題ということか。


 キッパータックは第六番大庭を出た後、半人半馬(ケンタウロス)地区にある商業パーク〈コラコロ〉に寄った。タムに関する情報を流していたテレビで、最近人気が急上昇しているというユニークなドーナツのことを知った。コラコロ内の店舗で売られているというので、購入して樹伸と夫人に差し入れしようと考えたのだ。
 平日にも関わらず、コラコロは買い物客で賑わっていた。コロシアムのような円形競技場をイメージした造りとなっているところで、周縁は階段状に徐々に高くなっていて、中央のメイン施設と緑の広場が見下ろせる。その階段部分にも店舗があるし、通路としてぐるっと行き来もできれば、食事を取るベンチにもなり、暇なゲームの客が愛好するようなベッドにもなる。
 キッパータックの目当てのドーナツ屋は中央広場にて販売車で営業していた。若い女性が半分以上を占める行列が長くできあがっている。この新進気鋭の揚げ菓子は、「真ん中ではなく外側に穴があいたドーナツ」として、そのフォルムのめずらしさで注目を浴びているらしかった。店の周りでむしゃむしゃやっている客たちの表情を見るかぎり、味や食感も悪くはなさそうだ。
 甘い匂いに空腹感が増してくる。キッパータックは行列に加わると、品切れを心配しながら、いくつ購入すれば自分の友人たちの日常の幸福に寄与できるか考えた。この後、階段に座って休憩するなら自分用もあった方がいいだろう──。

 二十分ほど待って、八個入りの箱二つと、ばらで二個、購入が完了した。キッパータックが抜けたことでわずかばかり短くなった行列から、「こりゃ、売り切れるかもなぁ」という声がもれていた。大盛況だ。
 ドーナツを送りたい相手が若取夫妻以外にもいた。
 キッパータックはここへ来る前、森林庭園の堺叶(さかいかない)に電話をかけていた。樹伸が巻き込まれた事件のことは、本人に訊いて傷を思い出させるより、穹沙(きゅうさ)署と繋がっている叶に訊いた方がいいのではないかと考えたのだ。叶からは、夕方なら森林庭園にいると思うから来てください、との返事をもらった。
「来てもいいですよ」ではなく「来てください」という言葉には、キッパータックと会って話したいという叶の個人的願望が含まれているのに、「やっぱり、事件について知っていることがあるんだな」と趣向のない解釈をしたキッパータック。それでも叶の分の手土産もゲットできたことでほっとしながら、別のドリンクスタンドで購入したアイスコーヒーとともに、ゆっくり寛げそうなスペースへと移動した。
「彼、他人(ひと)とは違う位置につむじがあるんですよ」という人物がそんな心配をよそに至極まっとうな男であるように、〈外側に穴があいたドーナツ〉も至極ありふれたドーナツの味をしていた。おいしいことには違いなかった。コロシアムなら観客席にあたる階段に座って、ぱくぱくと二つを平らげる。コーヒーはまるでコーヒー味の氷水みたいだったが、口に残った甘みと日差しによる熱気をさらってくれ、後は緑の草の上をまとまりのない〈ヌー〉のように移動する人たちをぼんやり眺めて過ごした。のどやかな時間。

「キッパータック君」
 声に振り返ると、そこにいたのは大庭調査会のメンバーで、研究ツアーでも一緒だったサムソン神酒(みき)であった。
「神酒さん。偶然ですね、神酒さんも買い物ですか?」
「まあね」
 神酒はストライプ柄の紺色シャツに黒のスラックスという姿で、胸ポケットにサングラスを差している。買い物客らしからぬ手ぶらでもあった。
「君も休日ってとこか」神酒はキッパータックの隣に座ると、にこっと微笑む。「でもま、僕には実は連れがいてね。今、あそこのメイン施設にいる。もしかして君も、彼女に好きな物なーんでも、どーんと買ってきていいよって言って、余裕で待っているところかな?」
「いえ、一人ですけど」
「なぁんだ」神酒は非常につまらないオチを聞かされた、というような顔をした。
 

 
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登場人物紹介

ヒューゴ・カミヤマ・キッパータック。砂の滝がある第4大庭の管理人。好きな食べ物・魚の缶詰。好きな生き物・アダンソンハエトリ(蜘蛛)。清掃業も営んでいる。

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