蜘蛛を飼う男(2)──樹伸が出会ったもの

文字数 2,906文字

 予約をしていないのだ、仕方ない。しかし庭の説明も自慢もしない、お茶も出さない庭主(ていしゅ)はなかなかいない。初対面で留守を頼んでいくやつも。地面を一回蹴るだけに怒りをとどめて、庭を見て回ることにした。あんな男が管理している庭だ、どこか欠陥を抱えているかもしれない。
 樹伸(きのぶ)はウォッチ型電話を使って妻に連絡した。「帰るのがちょっと遅くなるよ。お客さんの案内を頼む。もう何度も来ている家族連れだ。ハーブ園を見ていくと思う」
 帰宅後のキッパータックへのお説教について考えを巡らす時間を手に入れた。まずはやつが開けっ放しにしていった車庫から。通常、大庭(だいてい)は見世物なので、管理人の住居やそれに付随する生活感溢れる建物――車庫や物置といった類――は人目につかないように配置されていることが多い。が、ここは違った。庭口(にわぐち)から一番目立つ場所にどんと建っているのがそれで、壁の棚にびっしり小物が詰め込まれている。並んだ薬品や道具はどう見ても土をいじる類のものではなさそうだ。きっと清掃業のための用意だろう。庭と関係ないとなると樹伸の興味は半減し、そこにじっととどまる持久力を捻出することができなくなった。車が出ていったクリーム色の門から自分のいるところまで、軽自動車の安っぽい轍が庭面を汚しているものの、ごみが落ちているわけでもなければ草木が乱立しているわけでもない。暗く古くさい空気なのに不潔とまではいかない。どうにも調子が狂う。

 樹伸はくるりと翻って住まいを見やった。こちらは日本風というより洋風の造り。壁の色がこれ以上ないほど褪せてはいたが、住人を守るという威信の方は保っていそうだった。田舎の、腕のいい個人経営の医院といった頑丈な面持ちをしていた。大庭は客を迎えるためにあるものだ。そもそも人を寄せつけない造りにはなっていないだろう。
 扉に手をかけてみると、開いた。やはり思ったとおり、玄関を入ってすぐが客向けスペースで、やけに横に長い空間となっていた。長方形の木のテーブルの周りに布張りの長椅子や一人掛けの椅子が無造作に散らばっている。奥の壁には立派な木製カウンターが張りついていて、奇妙なほどの長さを持っていた。壁に合わせた特注だろうか。その天板に所狭しと並べられた水槽と陶器の壺。天井では冷房がカタカタと細かく震えながら質素で静謐な空気を吐き出していた。
「う、うぅん」樹伸は喉を鳴らすと一つの椅子に腰かけてみた。人生や大庭主として先輩である前に自分は客だった、ということを思い出した。しばらく休んだらまた滝観賞の続きでもやろうか。なにせあれがこの大庭の肝なんだ(あれ以外ほかに観るものはなさそうだし)。それはまるで、貧しく多忙で無味乾燥な亭主に仕方なく連れ添っている美人妻。その行く末を憂える仲人役が樹伸だ。空想配役に満足するとまた暇になってきた。こんなに客が来なさそうな大庭でやつは毎日なにを楽しみに生きているんだろう。これでは別糧が必要と思うのも無理はないか――。


 樹伸の退屈に答えるものがあった。冷房や時計の秒針とは違った有機的な物音だ。山のおいしい空気が頭に広がり、そのごちそうにいくらでも(あやか)れると信じている者が発する厚かましい生命を思い起こさせる音だった。この静まり返った家の中で?
 首がカウンターへと回る。水槽には腐葉土が敷いてあった。丸太や木の枝がオブジェのように美的に配され、壺にも板や木片や蔓が渡してあり、さながら小人が利用する忍者屋敷といった雰囲気だ。
「カブトムシでも飼っているのかな?」
 樹伸は腰をあげてカウンターに近づいていった。
 
 再び音がして、水槽の中で木の葉の欠片が微動する。忍者は突如、大勢で姿を現した。丸太の洞から退散するように這いでてきた黒い粒々たち。枝の端と端を繋ぐロープの橋をはしゃぐようにまた恥じ入るように走り去るはしこい黒い粒々たち。青い草をひっくり返し茶色の葉っぱを踏みしだき赤土をまき散らし灰や銀の混ざった石くれを泡立たせる黒い粒々たち……。水槽のあらゆる場所で人知れぬ訓練活動をくり広げだしたその粒々たちは――蜘蛛だった。樹伸は後ずさりした。何歩も後退し、そのまま椅子に戻った。
「ひぃ――」樹伸はごくりと唾を飲み込んだ。「まさか、蜘蛛を飼っているなんて……。それとも、なにかの餌?」
 こうなると一緒に並べてある壺が不気味だった。気になるばかりだが覗いてみたいとは思わない。樹伸は生き物が好きで自分の庭でもいろいろ飼ってはいた。しかし平和を愛する大庭主、客をもてなす公認ホストだ。親しむべきは、子ども客が喜ぶかわいらしい犬、猫とか、ポニーやヤギ、オウムやアヒルなんかじゃないのか。こそこそ走り回ったり黙って壺に(うずくま)ったりしているような生き物などこれ以上見たくなかった。あいつ、また私の大庭主観を裏切りおって――。

 長大息して額の汗をぬぐう。水を求めてきょろきょろする。あの戸口の向こうに流しがありそうだ。一歩踏みだしかけて、ふとテーブルを見た。物言わぬ物質は一体どうやってその存在を他者にアピールするのだろう。先ほどまではなにもなかったはずなのに、そこに水の入ったグラスが静かに佇んでいた。奇妙に感じながらも樹伸は腕を伸ばした。
「あっ!」
 掴んだ一瞬で後悔した。その柔らかい感触に驚いて振り落とした。グラスは、グラスに見えたものは、中身の水を一滴もこぼすことなく、しかもほとんど無音でテーブルに落下すると、黒い無数の欠片に散らばり、あっという間に消えた。しかし、その後のザザザという幕引きの音は忘れがたく耳に残った。蜘蛛の一群が作る黒い影が床を動いて水槽まで登っていく姿がセットだった。衝撃のショーだった。
「は、はわわわ……」
 樹伸は頭を抱えて外へ飛びだした。車が敷地に戻ってきたのを見たとき、レスキュー隊の到着と思えた。大庭主として失格の烙印を押してやりたいと思っていた相手であったのに、百三十歳の老体が一心に助けを求めて駆けていった。
「若取……さん?」樹伸が叩く運転席の窓を少しずつ開けながらキッパータックは言った。「なにか、あったんですか? あの……」
 庭主が車を戻している間、樹伸は地面に向かってぜーぜー息を吐いていた。キッパータックは車庫から歩いてくると言った。
「もしかして、家の中を見ましたか?」
「見た!」
「すみません……」キッパータックは苦い表情を浮かべた。「多分、あいつらを見たんでしょうね。虫がお嫌いな方には気の毒でしたね」
「う……む、む、虫、虫、む、し――」
「大丈夫ですか? そんなに取り乱されて。お水を持ってきましょう」
「み、ずっ!? 水を持ってくるだって? いいかげんにしろ! 君は、あんなものを私に飲めと、飲めと、言うのか?」
「ええ?」
 樹伸はしばらく動転していたが、キッパータックが持ってきた本物の水を受け取って、一気に飲み干すと安堵の息をついてちゃんと話せるようになった。
「はああー、恐ろしい。あれは、一体なんなんだね?」
「蜘蛛のことですよね?」とキッパータック。
「蜘蛛じゃなーい! いや、蜘蛛だ!」
「え?」
「あの水のことだ。あれはなんだと訊いてるんだ」
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登場人物紹介

ヒューゴ・カミヤマ・キッパータック。砂の滝がある第4大庭の管理人。好きな食べ物・魚の缶詰。好きな生き物・アダンソンハエトリ(蜘蛛)。清掃業も営んでいる。

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