蜘蛛を数える(3)──ピッポの素顔
文字数 4,164文字
そしてついに第五番大庭へ乗り込む日がやってきた。くたびれたサファリハットを手に取る。それでも念のために
ピッポ・ガルフォネオージの庭園へ着くと、敷地内を四輪駆動車が砂埃を巻きあげながら走っているのが見えた。観光客かもしれないとしばらく待つ。案の定、車からピッポと数名の若い男女が降りてくる。電話で会いに行くと約束をしておくべきだったか……。こんな砂漠のようなところを好んで訪れる者がいるとは。ピッポが自宅へと身を寄せたのに対し、男女は車のそばを離れないままだった。やがて彼らは笑顔で包帯男へ手を振り車内に戻り、砂色の門柱から出ていってしまった。
馴鹿布は車の後ろ姿が彼方で小さくなるまで待ってから、小走りでピッポの下へ向かった。
ピッポは背を向けていて、家の周りの植物の様子を見ているようだった。馴鹿布は息せき切って声をかける。
「すみません、あの……」
ピッポが振り向いた。
「陽平さん!」馴鹿布はピッポに飛びついた。「やっと……やっと会えた!」
「えっ?」
馴鹿布は勢いに完全に身を委ねなければこの演技は簡単に途切れてしまうとわかっていた。わかっていたので、三十年の探偵人生を一気に注ぎ込むように爆発させる。「陽平さん、あなたはなぜこんなところで……。桃香はずっと、ずっと、あなたを探していたのですよー」
「え? いや、ちょっと……」ピッポはとまどい、包帯を巻いた腕から馴鹿布の骨張った手を解こうとした。「すみません、これは一体どういうことですか?」
「陽平さん──」こうして至近距離にいると、ピッポ・ガルフォネオージという人物の熱が伝わってくるようだった。彼こそが、素性を覆い隠しながらも多くの人間を魅了している若き大庭主。そしてもしかするとこれが言葉を交わす最後になる。馴鹿布は包帯の奥で誰も知らない光を放っているであろう彼の瞳をたしかに見ているのだと思った。すぐそこに……絶対に、逃しはしない──。
馴鹿布はピッポから手を放すと身を起こし、眼鏡を片手で覆って嘘泣きに入った。「桃香はもう、産まれてくる子どもは独りで育てていくと、そう言っています。ぐぅ……私も娘の決断を全面的に応援するつもりですが、しかし、でも、そうは言っても、
ピッポが疲れた息を吐くのがわかった。「あなたはきっと人違いをなさっておいでです」
「いえ、あなたは陽平さんです」馴鹿布は声を
「あなたがどなたなのか僕にはまったくもってわかりません」とピッポは言った。「その陽平さんという方には申し訳ないですけど、僕は子どもができたからといって愛した女性を放りだして逃げるような、そのような卑怯な人生を、あるいはドラマティックな人生を、送る者ではありません」
「これを見てください」馴鹿布はかばんから写真を取りだした。「これがあなた、身を隠す前のあなたでしょう?」
ピッポは受け取って眺めた。グレーのブルゾン・ジャケットを着た若い男がまっすぐに立ち、笑顔を向けている。馴鹿布が各地区をひたすら歩き尽くし五日目にやっと見つけた(こいつで行こうと決めた)、ピッポ・ガルフォネオージに似た背格好の若者。若者には、「娘が服飾デザイナーをやっているので参考にしたい」と申しでた。特に怪しまれることなく撮らせてもらえた。
「僕ではないです」ピッポは返してきた。
「お願いです」馴鹿布は仕上げに入った。このままでは、ガルフォネオージ氏は怒って家に入ってしまう。二度と素顔を暴くチャンスはなくなる。「一度だけ、一度だけ娘と話してもらえませんか? お願いですからぁ!」
「そう言われましても、僕はその男性とは別人なのでどうしようも──」
「陽平さぁぁぁぁー……」地面にすがりつく。すべての涙を絞りだして世の中の砂漠を全部潤してやってもいいぞと、ここぞとばかりに泣いてやった。「子どもを認知しろと言ってるんじゃないんだよぉぉぉ……。なにも望まない、なにも……私の一人娘ェェェェ、ただただ桃香はあなたを──」
顔を伏せていたので見えなかったが、後頭部にやさしげな声が降ってきた。「……こちらへ来てください」
ピッポの背中が家に吸い込まれていく。馴鹿布はすばやく立ちあがると膝の砂を払い、展開に胸躍らせながら後を追った。
リビングに通される。大庭主はハーブ入りの紅茶を淹れてくれた。このシェフはまたスープ作りでもやっていたのか。キッチンは物で溢れ、むっとする蒸気と不思議な香りに包まれていた。馴鹿布は気づかれないように部屋のあちこちに視線を送り、髭がずれないよう用心しながらティッシュで鼻をかんだ。
「お名前をお聞きしていなかった」ピッポが言った。「日本の方? それとも東アジアにお住まいですか?」
「ナルカワと申します。あなたが娘を捨ててからもずっと、中央都のあの古びた家に……」
「紅茶を飲みながら少し待っていてください」ピッポは動いた。「あ、これもよかったらどうぞ」クッキーの入った籠を勧めると、リビングから出ていった。
馴鹿布の鼓動は静かに波打った。彼はきっと、なんらかの形で自分の素顔を提示してくるはずだ。勝ったのだ。勝負を挑んで、思ったとおりの結末まで導いた。昔の写真を持ってくるだろうか、それとも……。
再び現れたピッポは、新しいものか古いものか、
息を止めているような馴鹿布に、ピッポは言った。包帯の指で自分の顔を差して。「これでわかられましたか? 僕はあなたの娘さん、桃香さん? の恋人、陽平さんではありません。……どうですか?」
馴鹿布は、自分の目が十二対くらいに増えているのではないかと思った。それくらいの目で若き大庭主の顔を直視していた。「はい。あなたは日本人じゃないようだ。声や背格好はよく似ていますが、陽平とは別人……ですね」
「ピッポ・ガルフォネオージと言います」言いながら、するすると包帯がのぼっていき、あっという間に彼の素顔はまた白いガーゼの下に隠れてしまった。「この第五番大庭の庭主です。前任者から引き継いで、まだ六年くらいですが。二十歳からずっと、もう八年、
馴鹿布は深々と頭を下げた。「大変失礼しました。申し訳ない。とんだ人違いをしてしまいました」
「いいんですよ」
「あの、
「透明人間なんですよ、僕は」ピッポは静かに言った。もうすでに有名になりつつある、あの人を楽しませてやまない音楽的語調はまるでなく。「まあ、透明人間に対する憧れもあったかもですね。人は逆に魅せられるのです。自分が逃げてきたものに追われ、ずっと遠ざけながら、でも、それを象徴的に幻想的に表現したものに、心を掴まれる。赤い月の世界に、鏡の中に、鳥のいない空っぽの籠に、ガラスの街に、包帯の内側にある虚無の体に。そこにあるのは理想郷ではありません。ただ、形を変えただけの現実です。そこに居場所を見つけた上で、もう一度本物の現実にアタックするのです。ワンクッション置く。そういうやり方でしか、僕は生きられなかった。それだけ弱い人間だったのかもしれないですが」
「とても深い話で……」馴鹿布は視線を切った。「陽平さんも、もしかすると、現実を直視できなくなり、別の現実へ行ってしまったのかもしれませんね」
「いや、その陽平という人はひどいやつだと思いますよ」ピッポははっきり言って、笑った。「娘さんが愛した方を悪く言うのはいけないでしょうが、男としてどうかと。それから──」
馴鹿布は顔をあげ、ピッポを見た。
「あなたが作り物の髭をつけて変装されている理由もわからない。娘さんの元恋人に会われるのに、それが必要なのかと」
馴鹿布は動揺が顔にのぼらないことだけに神経を集中した。「いや、ちょっと、陽平はやくざ者とつるんでるようなやつでしたから。……もしかすると、まだそういう
「そうでしたか」ピッポはキッチンを片づけはじめた。「それならなおさら
「ええ、ほんとに……」
馴鹿布は握っていた帽子で手汗を拭うと、それを再び鬘の頭に載せた。「私はこれで失礼します。長々と、おじゃましました」