タムの結婚(6)──キッパータック家と楽しい会食……の後

文字数 3,984文字

 直後、マーロンは数秒間の霊的旅行(スピリットトラベル)を体験したかのようになった。といっても、彼が手放したのは幽体ではなく血の通った表情くらいであって、それは割合すぐに取り戻せた。ぷるぷると頬を振るうとグラスの緑茶をぐいっと煽った。
(かない)さん。あなたは結婚しても夫の大庭(だいてい)はほっぽって、森林庭園を管理したいと?」
「も、もちろん、ヒューゴさんのお手伝いを拒むという意味ではなく──」
「やっぱり茹で餃子の方が冷めてもおいしいと思うわ」アルマが餃子論議を復活させた。
「母さん、一体なんなんだ? この前も嘘話を披露してくれたばかりなのに」目一杯顔をしかめるマーロン。「日本人はパンケーキに醤油をどっさりかけるとか……よくもあんなデタラメを。もっと議論が必要な、実のある話をしたらどうなんだ?」
「嘘じゃないわよ。小説で読んだのよ……クラーラさんが」
「コーラの間違いだろ!」
「私が言いたいのはそういうことじゃなくて」アルマは口を噤まない。「亡くなった父さんが言ってたこと、忘れたの? 仕事の話を食卓に持ち込んじゃだめだって」
「私は叶さんの人となりが知りたいんだ!」マーロンがバリトンボイスを張りあげる。「叶さんの美的センスや仕事に対する姿勢を。当然だろう? ヒューゴのフィアンセなんだから!」
「兄さん!」
 今まで押し黙っていたキッパータックがついに口を開いた。「僕たちは結婚の話を進めているわけじゃないって、電話でも言ったよね?」
 皆のカトラリーが宙で止まったままになった。しかし今回のマーロンはトリップしない。
「……大切な人だと、一番仲のいい人だと言うから」ぶつぶつと、聞こえるか聞こえないかの音量を絞りだした後、マーロンは続けた。「叶さんが結婚という制度に懐疑的であるというなら、この話をしたことを謝ろう。でも、もしそうでないとしたら、一番仲のいい女性とも結婚の話を進めない、庭管理の仕事もなあなあで済ませておく、三十五歳にもなる男が──」
「餃子の話をしていたらこんな空気にはならなかったのに」アルマが断固として言った。

 キッパータックと叶はマンション横の駐車場にいた。ファー付きコートを着込んだリアが二人を見送るために出てくる。
「ドルゴンズ庭園に行くの?」とリアは驚く。「なんでわざわざ中央都まで来て庭園に。そんなに好きなんだ」
 キッパータック家にとっては大切な客人である叶との意見の交換よりも焼き餃子の話の方がマシだなどと母に言われ、不機嫌を収められなくなってしまったマーロンに、当初の予定どおり「退散しよう」と考えたキッパータック。
「好きっていうか、気になるっていうか。去年の大庭研究ツアーのときにも行ったんだけどね。タムの襲撃があって、じっくり見物できなかったから、そのやり直しに」
「タムが脅迫状を送ったってやつ? 叔父さん、あのツアーに参加してたんだ」リアはさあっと吹いてきた風に身を縮こませると、コートの開いた前身頃を引き合わせた。
「……パパがさ、なんかやらかしちゃって、せっかくの楽しい時間をぶち壊しちゃってさ。ごめんね」
「いいんだよ。またメールでも電話でもいつでも話せるし。不機嫌じゃないときには」
 叶もすまなそうに言う。「私も気が利かなかったというか……。お兄さんの意見も正しいと思うわ。結婚したら夫婦が協力するのは当然だろうし」
「にしても、うちのパパが『夫婦のハンドブック』を作成するのはやめるべきよ。そして私は彼氏を家に連れてくるのはやめておくべき」
「それは大丈夫じゃない?」とキッパータックは言った。「彼氏には仕事を手伝え、なんて言わないだろうから」
「言うじゃん、叔父さん」とリアは笑った。


 あのツアー、事件以来、七か月ぶりのドルゴンズ庭園訪問だった。二人の心はいまだタム・ゼブラスソーン襲撃の余波を気にしていたのだったが、専用駐車場に車を停め、門をくぐると、相変わらずの見物客の多さと、それを物ともしない漂う気韻(きいん)。なにも問題ないのだ、と胸を撫で下ろす。間もなく頭に浮かんできたのは「空から降る砂」のことであった。
 今度こそ拝もうと、西エリア行きの園内バスに乗り込む。あのときと変わらない心地よい揺れ。今度は道行きを同じくする大勢の旅人たちと一緒だ。キッパータックはツアーを回想する──風と陽光が放し飼いだった草原、叶とベンチに座って話をした広場。怪しげな黒いビニール袋、偽爆弾犬から逃れるために怖々のぼった〈ボークヴァの塔〉。それから、神酒(みき)とピッポがはしゃいで砂まみれになった〈ジョンブリアンの丘〉。
 二度目の訪問なのでまっすぐに草原へと向かった。空から降る砂を観たら今度こそ西エリア以外の場所も見物したい。しかし、草原を過ぎていざ林の奥へ、と思ったところで急に足止めを食らった。林の手前にロープが張られていて、ジョンブリアンの丘と「空から降る砂」がある崖方面は立入禁止となっていたのである。
「あらー、今回もお預け?」と叶は半分はおもしろがっているような調子で言った。
「ついてないね」キッパータックも仕方ないという片笑みを送る。「ここ目当てで来たのにね。落石でもあったのかな?」
 すると不意に叶がキッパータックの腕をぎゅっと掴んできた。「ね、あれ……警察じゃない?」
「え?」
 ロープの向こう側に並ぶバンなど数台の車は、庭園整備の業者のものかと思いきや、そこからちらと姿を見せた制服はたしかに警察らしかった。
 キッパータックと叶は暗い胸の内が一気に舞い戻り、とぼとぼと引き返す。草原まで戻ってくると、ボークヴァの塔の麓の広場へ足を踏み入れる。
 ベンチはすべて人で埋っていた。
「他のエリアに行こうか?」返事をもらおうと叶の方へ首を返すと、まるで違う方角から声がかかる。
「お二人!」
 紺色のウィンドブレーカーを着た体格のいい男が駆け足でやってくる。軽い微笑みを浮かべ二人を見つめるその顔にはっきり憶えがあった。
「大庭研究ツアーのときは、どうも」と男が会釈した。
 あの日、緊急メールの内容を確認するため、恐怖心を抑えてのぼったボークヴァの塔。そのときてっぺんにいて、庭園関係者と連絡を取りツアー客に状況を説明してくれた案内人であった。
 男は持っていた業務用タブレットで自分のプロフィール画面を表示させ、自己紹介してきた。
「あのときはろくにご挨拶もできないままで、失礼しました。私、西エリアのガイドをやっております、リュック・スニセといいます」
 キッパータックは彼と握手を交わした。「ヒューゴ・カミヤマ・キッパータックです。あのときはお世話になりました」
 スニセは叶には手を差しだす代わりにニッという笑みを向けた。「また来てくださったんですね。今回はプライベートで?」
「ええ、そうです」
「事前にご連絡くださればゲストハウスにお招きできるように手配したのに」
「そんな、ゲストハウスなんて」叶は慌てて手を振った。警察官らと一緒に

された日のことを思い出す。
 キッパータックは林の向こうの「空から降る砂」を観に来たことを告げた。立入禁止になっているとは知らず、諦めて引き返してきたのだと。
「警察がなにか調べているんですか?」探るように叶が訊いた。
「ええ」スニセがスッと真顔になった。「例によって例の如し、ですよ。お二人は穹沙(きゅうさ)市の方でしたよね? タム・ゼブラスソーンは一時期穹沙市ばかり狙っていましたから、そちらも警察がしょっちゅう来ているのではないですか? 美しい庭園に似つかわしくない風景がいまだに続いています。ただ捜査員は崖を棒でコツコツ叩き回っているだけらしいですが」
「崖を?」
 スニセは当然ながらこの話題を引き伸ばしたくはない素振りを見せ、庭園の話に戻し、夕方まで体が空いているので、よかったら二人を案内したいと言ってきた。「私は西エリアの担当なのですが、ドルゴンズ庭園内であればどこへもお供いたしますよ?」

 リュックー……

「?」
「今の」とキッパータックがきょろきょろした。「スニセさんのお名前では?」
 スニセは体を回転させ、ボークヴァの塔を見上げた。冬空の下、塔のてっぺんにいるのにネクタリン色のセーターの腕をまくって元気よく振っている若い女が見えた。
「リュックー! こっちこっち。おーい」
「エマ……」スニセは目を見開いて驚きを発した。「なぜここに」
 女はすばしっこい栗鼠(りす)のような動きでおりてくると、三人の下へやってきた。ぴんぴんと短い髪があちこちカールしていて、小顔なものだから、痩せて骨張った体にドングリの帽子(殻斗(かくと))が載っているような感じだった。化粧は濃いが少年のような力強い瞳と笑顔。エマは手に持っていた携帯端末やパンフレットをハンドバッグにしまい込むと、やはり寒かったのかハンカチを鼻に当て、「ズズズ」と音を立てた。
「京都へ行ってたんじゃないのか?」スニセはまだ顔中に驚きを漲らせたままで慌ただしげに問うた。「来てるんなら来てると教えてくれたら──」
「京都へは行ったよ」いたずらっぽくスニセを睨みながらエマは言った。「ただ、なんだかつまんなくなっちゃって。黙っていたのはあなたの仕事っぷりをこっそり眺めたかったからさ」
「おお、そうなの」スニセはややのけぞってから、肩をすくめた。「こちらのお二人は大庭関係者だよ。穹沙市から来られた方で……これからお二人を案内するつもりだから」
「お二人はお友だちですか?」と訊く叶に、エマが突然「ねえ、ちょっとだけ時間くれない?」と言った。
 わけがわからず顔を見合わせるキッパータックと叶。キッパータックが言う。
「スニセさん、僕たちは二人で回りますから──」
「あ、ちょっとだけでいいの。リュックはすぐにお返しするから」とエマはスマイルし、スニセと向き合った。
「ねえ。私、急に結婚したくなっちゃって」
「はあ?」スニセは今度は目を剥いた。
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登場人物紹介

ヒューゴ・カミヤマ・キッパータック。砂の滝がある第4大庭の管理人。好きな食べ物・魚の缶詰。好きな生き物・アダンソンハエトリ(蜘蛛)。清掃業も営んでいる。

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