タムの結婚(3)──ヒューゴさんは筋肉痛で静養中
文字数 3,625文字
「お姉さーん。係の人?」
七、八歳くらいだろうか。ノルディック柄のニット帽を深めにかぶり、仕立てのいい上品なコートを見事に着こなしている。聡明そうな顔つき&口調。
「そうだけど、どのようなお手伝いをご希望で?」
「これ、落ちてた」
寒さに赤らんだ手からころりと渡されたのは百ウォン硬貨だった。
「あっ、これはこれは。わざわざ届けてくれて、ありがとうね」
じゃ、というふうに手を挙げて、男の子は用は済んだと人
「ふぅむ」
叶はボアジャケットの脇ポケットに片手を突っ込み、もらったばかりの硬貨を鑑定家よろしく検分し、事もあろうか指で曲げようとしてしまう。
硬貨はもちろん、固い。
「……ま、蜘蛛のわけないかぁ」そうつぶやくと、テントのデスクに設置してある〈落とし物入れ〉にぽんと放り込んだ。
私だったらこれくらいのお金はもらっちゃうかも、今どきの子どもはみんな心が澄んでるわよね……そう思いながらも、その延長線上で、キッパータックの清掃術の師匠であるベラスケス一家が犯罪者になったことを考えると、いやいや、と首を振る。
一寸先は闇ってことか──。致し方ないこの世の現実だが、今はこの平和を味わうことにする。ぼんやり突っ立っていると、
叶はテントで待機していた学生アルバイトらに「ちょっと外すわね」と声をかけると、小走りにそちらへ向かう。
「先生、お疲れ様です」
「おお、叶君」返事をする
玄関をくぐる老先生の後へ続く。
「すまないね、そっちを任せっぱなしで」
部屋へ入ると、馴鹿布は帽子、コート、手荷物と順番に身から剥がし、ダイニングテーブルの椅子や床に預けた。「イベントはどうだい、順調かね?」
「はい、ぼちぼち。怪しいダフ屋も
その平和は、「庭荒らし、タム・ゼブラスソーンの不在」に限定していうと、今のところ東アジア国内全域にわたっているともいえた。
「キッパータック君は呼ばなかったのかい?」とダイニングテーブルの定位置に着きながら馴鹿布が訊いた。
「キッパータックさ……あ、ヒューゴさんは、ピッポさんと一緒に第十二番大庭・ペルシャ式庭園のクリスマスイベントに参加した際に軽い筋肉痛になったらしくて、自宅で静養中なんですよ」
「あそこで毎年やってる古代ペルシャの劇に出てかい?」
「舞台に立ったのはピッポさんの方で」叶はできあがった琥珀の液体をさっとカップに注いでテーブルに運んでくる。「ヒューゴさんは裏方ですよ〜。ピッポさんは吟遊詩人の役を演じられたようで……絵になったでしょうねぇ、観たかったわ」
「たしかに似合いそうだね。……しかしキッパータック君は筋肉痛とは、結構な力仕事があったんだな。年末まで清掃業を休んでいるならいいが。君、この後お見舞いにでも行ったらどうだ? 私の方は手が空いたから、後はやっておくよ」
「お見舞いなんて。そんな重症じゃないですから〜」叶は朗笑、という感じに変わる。「お気遣いいただきありがたいのですが、忙しいからってずっと会えなかったわけでもないんですよ。実はクリスマス休暇中に一日だけ、テゾーロ・パークで一緒にショッピングをしました」
「へえー、そりゃよかった」コーヒーをすする馴鹿布。
「そしたら、なんと!」
「え?」
叶はリビングの棚からぬいぐるみを取ってくると、馴鹿布の前にトン、と置いた。
「ん? なんだ? これは」
首がなく丸い体には脚が六本、背中には翼が四枚生えているという風変わりなキャラクターにお尻で挨拶をされ、眉をひそめる馴鹿布。気づいた叶がくるりと向きを半回転させたが、どちらにしろ頭がないので違いがわからない。
「二人で歩いてたらですね、偶然、私の元恋人に遭遇しちゃって」内容に反してうっとりとした表情を浮かべる叶。「なぜか傘の柄ばかりを段ボール箱いっぱいコレクションしていた変わり者の男でしたよ。財布を
「なぜこんなぬいぐるみを。その人の趣味なのか。……しかしせっかくもらったのなら君の家に飾ればいいのに」
「こんな不気味な物、嫌ですよ〜。中国の幻獣らしいです。なのでここで魔除けとして活躍してもらおうかと」
「魔除けねぇ」馴鹿布はぬいぐるみをテーブルの端によけると、再びコーヒーカップに口をつける。「よりによって元恋人と会うなんてな。でも平和に済んだようでなによりだ」
「そうなんですよ〜。探偵業をやっていたときの相手で、先生が深夜まで私をコキ使うからそれが原因でめちゃくちゃケンカして振られたのを憶えています〜」
「悪かったな……」
「お気になさらず〜。今の幸せを大切にします。それに彼……あ、元恋人の方ですけど、キッ……じゃなかった、ヒューゴさんのこと、やさしそうだし、誠実そうな人だねって言ってくれました」
「そうだな。君たちはいかにも初々しいカップルという感じで、うまくいっているようで、よかったよ」
「そんな、お似合いだなんて。照れます〜」
私生活にやや舞い上がり気味らしい叶を、馴鹿布はありがたいと思った。今現在、取りかかっている仕事の重苦しさは、馴鹿布のみならず叶も承知していた。
サムソン
叶との会話の後もすっかり
叶はその様子をしばらくの間
「
「いや……これといった収穫はなしだな」端末の画面から目を離さない馴鹿布。
「神酒さんは、相変わらず取り調べ中なんでしょうか……」
「そうだろうな」
「マジック・ケーヴという名前の不思議な洞窟や金色の光について、福田江が誰かに話していなかったか調べてほしい」そう依頼された。
マジック・ケーヴ? 金色の光? 福田江はやはり、タムにさらわれたのだろうか?
警察の捜査員が、タムに襲われていないはずの第二十番
「飼ってた猫がまたいなくなっちゃって……」そのときだけ、気弱な息を吐いた。
元探偵がいまだに事件に首を突っ込んでいて、猫のことなんて構ってられなくてな、と言おうとしているとしたらこっちも腹を立てなきゃいけないくらいだ、と馴鹿布は思った。平和に凪いでいるのは表面だけで、実際は誰もがなにかを抱え、もがいている。タムも猫も深く潜り込んでいるのだ──自分にはもう息継ぎできない場所で。
「私、案内テントに戻りますね」叶は元恋人からもらったぬいぐるみを抱いていて、老先生を労う顔色だった。「こっちは全然忙しくないので私一人で大丈夫ですし、なにかご用があれば遠慮なく、いつでも呼んでください」
「そのぬいぐるみ、どうする気だ?」
「アルバイトの人たちに見せるだけですよ、案外ウケるかもしれないし」
「さすがにプレゼントを売り払いはしないか」と馴鹿布は笑った。
「ひどいんだから……じゃ、仕事に戻ります」叶は敬礼のポーズをして、去っていった。