愛の行動(5)──雨に佇む人

文字数 3,518文字


 キッパータックも玄関から外へ飛びだす。
 フラワースタンドの台座が丸見えになっていた。そこにさっきまで載っていた植物たちは地面に無惨に転がされている。(かない)は遊歩道へ続く園路で仰向けに倒れている男のそばにしゃがんでいて、馴鹿布(なれかっぷ)はというと、遊歩道を駆けていく後ろ姿があった。
「大丈夫ですか?」と叶が男に呼びかけている。
「ぐぅ……」若い男は(うめ)いて、それから激しく咳き込むと、首から下げていたIDカードを叶に見せようとする。「じ、自分、警備員で、す。穹沙(きゅうさ)署に、雇われて……。ま、だ……連絡──」
「襲ってきたの、タムの仲間?」
 男は苦しみに顔を歪めたまま、こくんと頷く。
「警察なら今から連絡するから、苦しいなら無理にしゃべらないで」
 キッパータックは叶に近づいていった。「ブランコの上に手紙が」
 叶はキッパータックから渡された白い封筒を開け、中身に目を走らせる。

 
  (うら)むならルカラシー・ドルゴンズを恨め。
               ──タム・ゼブラスソーン

 
「タムめ……」叶は歯噛みした。「またルカラシーさんを名指し? なんだって言うの?」
 救急車と警察への連絡を終え、キッパータックと叶は棒立ちになり、ほかになにをするべきかと考えた。警備員の男は邸宅の壁に寄ってしゃがんでいる。
「すみません、お役に立てなくて」若い男は悔しがった。
「仕方ないですよ。相手は犯罪者だし、あなたがいなかったら私たちがやられてたかもしれないし」と叶は言った。「私たち、ドーナツを食べていたんですよ。へたをするとフォークで刺し合いになってたかも……」
 十分くらい経って、遊歩道の奥から馴鹿布が小走りで帰ってきた。
「馴鹿布先生!」
 馴鹿布は叶とキッパータックのそばまで来ると、胸を押さえて地面に膝をつき、倒れ込んだ。
「先生、大丈夫ですか!?
「くほぉっ」馴鹿布は咳き込んだ。「すまん……逃がした。まだそう遠くへは行ってないはずだが、息が」
「先生も無理しないでください。後は警察に任せましょうよ」と叶。
「うちの鉢植えを抱えてた」馴鹿布は息も絶え絶えながら伝える。
 そこにいた全員、タムの手下がひっくり返していった植木鉢の方を見やる。
「あんなもの盗むくらいで、警備員に暴力を振るったっていうんですか?」と憤る叶。
「それがやつらだよ」馴鹿布はやっと姿勢をまっすぐにして立ちあがる。
 叶が馴鹿布にタムの置き手紙を渡すと、駐車スペースに救急車と警察の到着が見えたのだった。
 

 キッパータックは手紙を発見したくらいのものだったので、実況見分につき合うことなく、暗くなる前に家に戻った。ドーナツを渡して、樹伸の話と神酒の話をした。残りはタム・ゼブラスソーンが壊していった。そういうことがなかったとして、キッパータックにデートの約束を取りつける会話ができていたかはわからないが、こうやってタムは、大庭主たちの平和な日常を変えてきたのだ。庭園というのは、こういうことが起こる場所ではなかったはず。不自由で、心悲しい──。

 車のフロントガラスに雨の雫が落ちてきていた。開放されたままの庭の門をくぐると、雨を避けようと動く客の姿がちらほら見えた。庭の名物である〈砂の滝〉は夜間、微かに発光するので、蛍の季節が来ると同時に存在を思い出される傾向があるらしく、夏から秋にかけて納涼の効果を求めて見物客が増える。すでにタムに襲われていて、もう来ないだろうということと、頻繁にパトロールされている安心から、最近は邸宅に鍵をかけて庭は誰もが出入りできるようにしていた。また新たにタムの餌食になった庭園のニュースが飛び交い、世間はあれこれ言うのだろう。事件については腹立たしいわけだが、これでもうタムが来ることに怯えないでいられると、叶と馴鹿布の緊張は少しは解けるのだろうか。
 見物客たちにとっては他人事で、不安を口にしたりいつまで経っても捕まえられない警察に文句を言ったりする者はまれで、タムに出くわすことを期待してか、まだ襲われていない庭園に客足が増えているという話まで聞いている。

 手洗い場があり、その屋根の下に、男女二名の客と観光局職員の草堂(そうどう)駿(しゅん)が雨宿りしていた。草堂は腕に傘を数本抱え、貸しだそうとしているようだった。キッパータックが玄関ポーチを踏むと、草堂が駆け寄ってくる。
「草堂君、お疲れ様。雨降ってきちゃったね。お客さんに中に入ってもらおうか」鍵を開ける。
「あの二人はもう帰るって言ってるけどな」と教える草堂。「それより、あれ……」
 こそこそと示す草堂の視線を辿ると、雨にさらされても一向に構わない素振りで一人、砂場と向き合う女性の後ろ姿があった。茶色で長い、ストレートな髪。夏用の薄いカーディガンの肩に小型のリュック。足下には大きな旅行カバン。
「どう見ても日本人観光客だろ? 案内しようとしたんだけどさ、そしたら、『キッパータックさんはいらっしゃいますか?』ってさ」
「僕のお客さん?」とキッパータックは驚く。
「二十代かなぁ、まあ美人だよ。でもなんか、暗い雰囲気でさ」草堂は女性の様子を盗み見ながら小声になる。「あんた、まさか妙な厄介ごとを抱えてないだろーな?」
「厄介ごと?」とキッパータックは眉をひそめる。
「ピッポ・ガルフォネオージ氏じゃあるまいし、あんたに〝会いたい〟なんて言う観光客がいるはずがない。知り合いか?」
「日本に住む若い女性の知り合いなんてちょっと思い浮かばないな。でも、傘を貸した方がいいかもしれないね。一本もらうね」キッパータックは草堂が持っている傘を一本抜き取った。「それより、森林庭園にタムの手下が来たんだ。鉢植えを一個盗んでいったみたい。僕もさっきまでいたんだけど、今、警察が来て調べてる」
「森林庭園に!?」と声をあげる草堂。「かーっ、警察がこんなに見回りしてもか。……でも、キッパータック氏が森林庭園になんの用事で行ってたんだ? 清掃の仕事は休みだったはずだろ?」
「と、友達がいるから」
「ふーん……」草堂は傘の先を地面に下ろして、じっと(あらた)めるような目を向けてきた。「孤独が極まって、ついに草木を友達と言いはじめたか」
「ちゃんと人間の友達だよ」
 キッパータックは女性に近づいていく。邸宅のドアを開けて不要な傘をしまった草堂は、男女に中で休んでいきませんか? と勧めに行く。

「こんばんは」とキッパータックは背中に声を送った。
 カーディガンとリュックが水気を含んで、女性の影を一層重くしていた。女性は数秒かけて、ゆっくりと振り向く。
 どこか疲れた表情だったが、面長で、やさしげな目をした若い女性だった。
「よかったら、この傘使ってください」
 キッパータックが差しだす傘を見つめて、なにも言わず、キッパータックに視線を返してくる。キッパータックはとまどって、「あの……」と口にして続きを一旦放棄した。
「大庭主のキッパータックです」と改めて自己紹介した。会ったことがない人だと記憶がはっきり告げている。「今日は、その、砂の滝を見物に?」
 その肝腎な滝は、繁く落ちてくる雨の線に紛れて見えなくなっていた。滝観賞としては最悪のコンディションである。女性はそれでも鈍色(にびいろ)(くう)をじっとり見ながら、ようやく口を開いた。「ここの砂は観光資源として守られているんですよね? 東アジアの大庭って、資産家が栄華を誇るために設えた庭園ではなく、環境保護の観点から造られたって」
「それはいろいろです」とキッパータックは一緒に砂を見つめながら説明する。「中央都とか比較的大きな都市に古くからある庭園は、おっしゃったような資産家が贅を尽くして造ったものが多いです。穹沙(きゅうさ)市の場合は自然が多くて、観光地としては地味な方だったので、保護の役目と、庭にしてアピールする目的で選定したみたいですね」
「さっき来ていたお客さんが中に入っていましたけど」
「立入禁止じゃないので、入るのは大丈夫です。触ると粒子が壊れて見た目、砂が消えたみたいになりますけど、だからといって触ったらいけない、ということもありません。ただ砂場はやたらと足を取られて歩きにくいですよ」
 雨粒を音もなく吸い込んでいる砂場に女性の目は引き寄せられていた。そして再びキッパータックを見つめる。
「サムソン神酒って人をご存じですよね? その人からここの話を聞いたんです。キッパータックさんが管理している第四番大庭には空から落ちてくる不思議な砂があるって」
「ああ、神酒さんのお知り合いでしたか」
 女性は突然、キッパータックと共有する空間に手を浮かせた。そこに指輪が現れた。指に通されていない銀のリング。どこか悲しげな色の、透明な石。雨粒が次々と降り注ぐ。

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登場人物紹介

ヒューゴ・カミヤマ・キッパータック。砂の滝がある第4大庭の管理人。好きな食べ物・魚の缶詰。好きな生き物・アダンソンハエトリ(蜘蛛)。清掃業も営んでいる。

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