愛の行動(6)──もう会えない
文字数 3,303文字
キッパータックは傘を開いて、女性へと傾けた。「もしかして、神酒 さんの恋人の……」
「一井 成海 といいます」と成海は目を伏せて答えた後、傘の中棒をキッパータックへと押し返した。「自分の折りたたみ傘を出しますから、キッパータックさんが差してください」
成海は手早く傘を出して差すと、旅行カバンを片手で引き寄せ、キッパータックと向き合う。「恋人の、ではなく、
「え?」
「なんでしょうね、これって」成海は歪んだ笑みを浮かべる。「身辺整理? とにかく、やけに深刻な声で、もう会えないとか急に言いだすから、どういうことか説明してほしいって言ったんですが、『説明しなければならないような理由はない』と言うんです。なにか思い詰めているとか、仕事がうまくいっていないふうでもなかったし……」
「どこか遠くへ、外国へ行かれるということでしょうか?」
頭 を振る成海。「わかりません。たしかに私は大分年下ですけど、なんでも話してくれる人だって思っていました。つきあってもう七年になります。彼、明るい人で、秘密とか似合う人じゃないし」
「僕もそう思います」とキッパータックは答えた。「神酒さんは僕にとってもそういうイメージでした。一体、どうしたんだろう?」
「この石」成海は再びキッパータックにアピアンが嵌められた指輪を見せる。「砂場に現れる不思議な石と聞いていましたから、砂に返してやろうかなって思ったんです。でも、わざわざ地図を調べてまで海に行くのもなんだし、指輪に加工されているものを捨てるのもなって。それで思いついたのが神酒から聞いていた『ここ』だったんですが、やっぱり、保護されてる場所だろうとそうでなかろうと、捨ててはいけないよなって、留まりました」
言葉の終わりに、成海は唇をぎゅっと結んだ。キッパータックには、どういう返答がふさわしいかわからなかった。彼女を慰めてあげられたら……それが必要そうだとわかっていても、「恋」が絡んでいるとなると、心の抽斗 すべてを開けても言葉は見つからなさそうだった。
神酒から聞いていた話のすべてがそのままあった。「恋人とは会えなくなる」とたしかに言っていたし、そのためにお守りとして指輪を渡したい、とも。神酒にとっての〈アピアン〉と考えると、並ならぬ思いが込められているはずだ。しかし成海は、その思いを受け止める気にはなれない、と言っているのだ。
キッパータックが傘を差しだしたように、今度は成海がキッパータックにアピアンの指輪を差しだす。
「キッパータックさん。こんなこと頼んで申し訳ないのですが、これ、神酒に返してくださいませんか? もし返せなかったら捨ててくださっても売っても構いません。私は明日、日本に帰ります。彼がもう会えないって言うんですから、そのとおりになるでしょうね。私はこんな〝お守り〟なんていりません。きっと見るたび、あれこれ思い出して、ムカつくだろうし、いろんな感情で堪 らなくなると思うんです。それに、東アジアで発見された物なら東アジアに置いておいてあげるべきでしょう?」
理不尽なことに怒っていながら、他人の手前抑えている様子の彼女に追い打ちを与えたくなくて、気持ちとしては逡巡 しながらもキッパータックは指輪をてのひらに受け取った。
成海の傘が大きく動いて、水滴がばらっとこぼれる。「おじゃましました。失礼します」旅行カバンを取って、一つおじぎしてから成海は足早に去っていった。
「おいおい、なんだったんだ?」成海が完全に見えなくなってから、心配した草堂が駆け寄ってきた。「ドキドキしたぜ。随分深刻な雰囲気だったな」
「さっきの人、大庭調査会の神酒さんの恋人で──」指を折り曲げ、指輪と水滴の冷たい感触を味わうキッパータック。
「へえ、そうなの」
「神酒さんが大庭調査会をやめたとか。草堂君、なにか知ってる?」
「おれが知るわけないよ」草堂は差している傘の中棒を肩に預けて言う。「そもそも部署が違うしな。あれは市民の代表だから、応募して面接で通れば誰でもメンバーになれたはずだぜ。仕事が忙しくなってやめたんじゃないの?」
「そうなのかな……」
森林庭園はというと、タム襲撃が報道されたことはされたのだったが、それより心配なことが持ちあがっていた。馴鹿布 が体調を崩して入院したというのだ。タムも原因の一つと言っていいかもしれない。いくつか気にかかる症状に悩まされて、血圧にも異常が出ていたので検査と安定を図るための入院ということだった。
八脚馬 地区の大学病院と聞いて、キッパータックは午前中の仕事を片づけると行ってみることにした。
日曜日だったので、病院前の公園には大勢の市民が集い、封印された化石から解かれ野に放たれた恐竜のような奇声をあげる子どもたちが草の上を走り回っていた。駐車場から歩道橋を渡り、叶 との待ち合わせ場所の噴水広場に着く。
噴水は中央に、金平糖のような尖った角をいっぱい持った球形のモニュメントが据えてあった。球の下部の四角形の口が水を吐きだし、受け止める円状の水盤は周縁から三十センチメートルほどの高さの水柱をいくつも噴きあげている。
キッパータックがその縁に座って休んでいると、両手に荷物を抱えた叶が走ってきた。
「すみませーん、お待たせして」手前まで来ると、叶はぜーぜー息を吐いた。
「大丈夫?」キッパータックは立ちあがって迎えた。「僕は全然待ってないよ。こっちこそ大変なときに来てしまって、ごめんね。それ、馴鹿布先生の荷物?」
「ええ」叶は荷物を地面に置いてから、ハンカチで額の汗を拭った。「着替えとか、着替えとか……ですね。検査の結果によっては長引くかもしれないので、準備を万端にしておこうと。後でまた取りに行ってほしいとか言われたらめんどうですし」
叶は馴鹿布のことで頭がいっぱいで、タムについては尾を引いていないようだった。襲われた警備員も軽傷で、庭としては鉢植えが一つ消えただけではある。しかしタム事件の特徴は、なにをされたか、なにを盗まれたかよりも、「警察を物ともせず堂々と現れ消えるふてぶてしい怪盗」なのであって、それが打撃であり、隔靴 掻痒 なのである。森林庭園がタムから受け取った声明文の内容もやはり公にはされなかったのに、相変わらずなにか起こるたびにドルゴンズ庭園が話題にされる、ということも続いていた。
キッパータックは神酒のことを話した。神酒の恋人・成海が砂の滝に指輪を捨てる気でやってきて、捨てきれずにキッパータックに預けていったことを。
「あわー……」と叶は声のトーンを仰々しく尻すぼみさせた。「やっぱりそうなる、なりますよねぇ。もう会えなくなる宣言とともに渡される指輪なんて謎すぎるでしょ。お守りなんて、心配症のお父さんにでもなったつもりですかね? なんなの!?」
「神酒さんの携帯端末に連絡を入れたんだけど、全然返事がなくて。まだ返せずじまいなんだ」とキッパータックも弱って言った。
一通り話すと、キッパータックは「僕、そろそろ仕事に戻るね」と告げた。
「え? 病室に寄って行かれないんですか?」と叶。
「うん。退院されたらまた、ご挨拶に伺うよ。今はゆっくり休んでほしいし。先生にはよろしく伝えておいて」
「そうですか。お忙しいですものね」
キッパータックと叶は並んで歩きだす。
キッパータックはふと立ち止まると、「あ、荷物──さすがに重いよね? 病院の入り口まで運ぼうか?」と訊いた。
「いえ、これくらいどうってこと──」
キッパータックの方へ顔を返した叶。平気だと笑いかけるつもりが、「危なーい!」と言う叫びに変わって、放りだした荷物。次の瞬間、キッパータックを力のかぎり突き飛ばしていた。
「うわっ!」
「あ……」
キッパータックの後頭部から水が勢いよく迸 っていた。近くに居合わせた子どもたち、散歩中の老人、そして原因となったフリスビーを投げた若者たちも皆、噴水の水盤に仰向けに倒れたキッパータックを見て、固まっていた。
「あぁ、やっちゃった……」叶は自分の顔をてのひらで押さえた。
「
成海は手早く傘を出して差すと、旅行カバンを片手で引き寄せ、キッパータックと向き合う。「恋人の、ではなく、
元恋人
になりますね。それから、彼は大庭調査会もやめたみたいですよ」「え?」
「なんでしょうね、これって」成海は歪んだ笑みを浮かべる。「身辺整理? とにかく、やけに深刻な声で、もう会えないとか急に言いだすから、どういうことか説明してほしいって言ったんですが、『説明しなければならないような理由はない』と言うんです。なにか思い詰めているとか、仕事がうまくいっていないふうでもなかったし……」
「どこか遠くへ、外国へ行かれるということでしょうか?」
「僕もそう思います」とキッパータックは答えた。「神酒さんは僕にとってもそういうイメージでした。一体、どうしたんだろう?」
「この石」成海は再びキッパータックにアピアンが嵌められた指輪を見せる。「砂場に現れる不思議な石と聞いていましたから、砂に返してやろうかなって思ったんです。でも、わざわざ地図を調べてまで海に行くのもなんだし、指輪に加工されているものを捨てるのもなって。それで思いついたのが神酒から聞いていた『ここ』だったんですが、やっぱり、保護されてる場所だろうとそうでなかろうと、捨ててはいけないよなって、留まりました」
言葉の終わりに、成海は唇をぎゅっと結んだ。キッパータックには、どういう返答がふさわしいかわからなかった。彼女を慰めてあげられたら……それが必要そうだとわかっていても、「恋」が絡んでいるとなると、心の
神酒から聞いていた話のすべてがそのままあった。「恋人とは会えなくなる」とたしかに言っていたし、そのためにお守りとして指輪を渡したい、とも。神酒にとっての〈アピアン〉と考えると、並ならぬ思いが込められているはずだ。しかし成海は、その思いを受け止める気にはなれない、と言っているのだ。
キッパータックが傘を差しだしたように、今度は成海がキッパータックにアピアンの指輪を差しだす。
「キッパータックさん。こんなこと頼んで申し訳ないのですが、これ、神酒に返してくださいませんか? もし返せなかったら捨ててくださっても売っても構いません。私は明日、日本に帰ります。彼がもう会えないって言うんですから、そのとおりになるでしょうね。私はこんな〝お守り〟なんていりません。きっと見るたび、あれこれ思い出して、ムカつくだろうし、いろんな感情で
理不尽なことに怒っていながら、他人の手前抑えている様子の彼女に追い打ちを与えたくなくて、気持ちとしては
成海の傘が大きく動いて、水滴がばらっとこぼれる。「おじゃましました。失礼します」旅行カバンを取って、一つおじぎしてから成海は足早に去っていった。
「おいおい、なんだったんだ?」成海が完全に見えなくなってから、心配した草堂が駆け寄ってきた。「ドキドキしたぜ。随分深刻な雰囲気だったな」
「さっきの人、大庭調査会の神酒さんの恋人で──」指を折り曲げ、指輪と水滴の冷たい感触を味わうキッパータック。
「へえ、そうなの」
「神酒さんが大庭調査会をやめたとか。草堂君、なにか知ってる?」
「おれが知るわけないよ」草堂は差している傘の中棒を肩に預けて言う。「そもそも部署が違うしな。あれは市民の代表だから、応募して面接で通れば誰でもメンバーになれたはずだぜ。仕事が忙しくなってやめたんじゃないの?」
「そうなのかな……」
森林庭園はというと、タム襲撃が報道されたことはされたのだったが、それより心配なことが持ちあがっていた。
日曜日だったので、病院前の公園には大勢の市民が集い、封印された化石から解かれ野に放たれた恐竜のような奇声をあげる子どもたちが草の上を走り回っていた。駐車場から歩道橋を渡り、
噴水は中央に、金平糖のような尖った角をいっぱい持った球形のモニュメントが据えてあった。球の下部の四角形の口が水を吐きだし、受け止める円状の水盤は周縁から三十センチメートルほどの高さの水柱をいくつも噴きあげている。
キッパータックがその縁に座って休んでいると、両手に荷物を抱えた叶が走ってきた。
「すみませーん、お待たせして」手前まで来ると、叶はぜーぜー息を吐いた。
「大丈夫?」キッパータックは立ちあがって迎えた。「僕は全然待ってないよ。こっちこそ大変なときに来てしまって、ごめんね。それ、馴鹿布先生の荷物?」
「ええ」叶は荷物を地面に置いてから、ハンカチで額の汗を拭った。「着替えとか、着替えとか……ですね。検査の結果によっては長引くかもしれないので、準備を万端にしておこうと。後でまた取りに行ってほしいとか言われたらめんどうですし」
叶は馴鹿布のことで頭がいっぱいで、タムについては尾を引いていないようだった。襲われた警備員も軽傷で、庭としては鉢植えが一つ消えただけではある。しかしタム事件の特徴は、なにをされたか、なにを盗まれたかよりも、「警察を物ともせず堂々と現れ消えるふてぶてしい怪盗」なのであって、それが打撃であり、
キッパータックは神酒のことを話した。神酒の恋人・成海が砂の滝に指輪を捨てる気でやってきて、捨てきれずにキッパータックに預けていったことを。
「あわー……」と叶は声のトーンを仰々しく尻すぼみさせた。「やっぱりそうなる、なりますよねぇ。もう会えなくなる宣言とともに渡される指輪なんて謎すぎるでしょ。お守りなんて、心配症のお父さんにでもなったつもりですかね? なんなの!?」
「神酒さんの携帯端末に連絡を入れたんだけど、全然返事がなくて。まだ返せずじまいなんだ」とキッパータックも弱って言った。
一通り話すと、キッパータックは「僕、そろそろ仕事に戻るね」と告げた。
「え? 病室に寄って行かれないんですか?」と叶。
「うん。退院されたらまた、ご挨拶に伺うよ。今はゆっくり休んでほしいし。先生にはよろしく伝えておいて」
「そうですか。お忙しいですものね」
キッパータックと叶は並んで歩きだす。
キッパータックはふと立ち止まると、「あ、荷物──さすがに重いよね? 病院の入り口まで運ぼうか?」と訊いた。
「いえ、これくらいどうってこと──」
キッパータックの方へ顔を返した叶。平気だと笑いかけるつもりが、「危なーい!」と言う叫びに変わって、放りだした荷物。次の瞬間、キッパータックを力のかぎり突き飛ばしていた。
「うわっ!」
「あ……」
キッパータックの後頭部から水が勢いよく
「あぁ、やっちゃった……」叶は自分の顔をてのひらで押さえた。