第9話

文字数 761文字

 兄は一年半ぶりに再入院していた。
 家族や、親戚は、誰も本当のことを口にしなかったが、もう兄が退院することはないだろう、ということは、美琴もうすうす察していた。

 ある日、美琴と兄は、病院の窓から空を見た。
 海の底のように深く青い空だった。

 この空は、どこまで続いているんだろう、とか。
 私たち似てるよね、とか。

「ミコは、ピアノ、やれよ」

「もうコンクールは無理。そんな気分じゃない」

「でも弾くことまで嫌いになったわけじゃないだろ?」

「まあね。でも、あえて、どうして?」

「どうしてって、まあ、好きだから、かな。ピアノの音。ミコが弾くやつ」

「タカちゃんが?」

「うん、そう。だめか?」

「てか、それだけ?」

「……」

「なに? どうしたの、はっきり言ってよ。人の心って口にしないと伝わらないってテレビでも言ってたよ」

「たぶん……」

「ん?」

「つまり、なんとなくだけど、ずっと”聴ける”気がして」

 兄はもう半分くらい身体が透明になっているかのようにそれの言葉を口にした。

「聴けるって、いつまでも?」

「そう」

「ねえ、なにがいい? ベートーベン? それともアニソン?」

「なんでもいい。何を弾いても、ミコの音は、きっと、わかるから」

「そうかな? そのうち、めっちゃうまくなって、名演奏家と区別ができなくなるかもだよ」

「それでも、きっと、わかるよ。僕には」

 薬の副作用でふっくらした丸顔に変化していた兄が、天真爛漫な子供のように笑みを浮かべた。

 ちゃんと、わかる。
 永久に、時を越えて。

 だから、それは、空気みたいだ。

 どこまでも、ひたすら空気みたいだ、空気でいい、空気でなにが悪い、と思いながら、美琴は空を恨んだ。

 もし、兄のことがなかったら、美琴のほうが空気になっていたかもしれない。

 けれども、兄が空気になったから、美琴は残る決心をしたのだ。
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