第19話
文字数 3,180文字
翌週の土曜、ホームルームが終わって速攻で帰宅していく生徒たちに交じって美琴が教室を出ようとすると、もともと不動のピアノ合唱伴奏者だった浅田さんが声をかけてきた。
「澤野井さん、ちょっといい?」
「あ、はい……」
浅田さんの大人びた声を、美琴は久しぶりに聞いたような気がした。ここしばらくは浅田さんこそ、ホームルームが終わるとすぐに教室を飛び出していた。
「あなたはこれから講堂でピアノの練習でしょ?」
「はい」
「でも、お昼、行く?」
「いや、パンとか買ってあるし、講堂でゆっくり、と」
「じゃあ、わるいんだけど、あの古いやつ、少し見させてもらっていいかしら?」
「プレイエルですね。私が許可を出せる立場じゃないですが、問題はないと思います。そちらの時間がゆるすなら」
「今日は少し余裕があるの」
「では、私、鍵を借りてくるので、講堂の入口で待っててください」
「了解」
浅田さんは、見た目は天然パーマのくせ毛で痩せっぽち。あきらかに下町女子ふうの見た目なのだが、じつは財閥名家のお嬢様というギャップの持ち主。
美琴が鍵もって講堂入口に現れると、すぐに扉を開けて二人でしんとした講堂に入った。
美琴が窓を開けて風通しをよくしている間に、浅田さんが先にプレイエルのフタを開けて、いきなりベートーベンを弾き始めた。
月光ソナタの激しい三楽章を1/3ほど弾いて、首を傾げた。
「やっぱり、これ、楽器としてはダメっぽいわね」
「え?」
美琴はピアノの横に立ち、浅田さんの言葉を疑った。たしかに現代ピアノのようなシャープさはないが、これはこれで素晴らしい楽器と美琴は思っていた。
「まあ、わかってたけど、正直、あなただけっていうのが、ちょっと嫉妬しちゃって」
「そんなによくない?」
「音がぼやけすぎでしょ。ピアノと言うより、地下鉄の騒音みたい」
さすがにその例えは……と美琴は苦笑した。
「ときどき、プレイエルでレコーディングする人もいるみたいだけど、私は遠慮ね」
「ベートーベンだからじゃない? ショパンなら……」
すかさず浅田さんがショパンのワルツを弾き始めた。ピアノの実力を試すように、普通よりも大げさに抑揚をつけて。
そしてふと、意外そうな顔をして手を止めた。
「そうか、これ、鳴るんだ」
「鳴る?」
「澤野井さん、気がついていた?」
「まあ、ボディのほとんどが木製だから、よく響きますよね、それがよしわるしで、濁ったりもするけど」
「うんん」と浅田さんは首を横に振った。「ただの木じゃない、マホガニーの銘木よ、これ」
「材質まで知ってるの?」
「今の安いマホガニーとはぜんぜん違う銘木中の銘木。19世紀に取り尽くされてしまったキューバの赤い宝石、いわゆるキューバンマホよ。って、そんなに不思議そうな顔しないで。うちは実家がもともと材木問屋だから」
「ああ、それで」
「ちなみに、材木屋のことは、いろいろと過去のことなので、他言禁止でお願い」
「りょ」
浅田さんが、一旦深呼吸をしてから、しなやかにノクターンを弾き始めた。
音が、急にクリアになった。
そして手を止めた。
「私、ショパンの楽譜って、ペダルの指示が早いし、多いし、ヘンだなって感じてた。その理由、わかったわ」
「え?」
「当時のピアノって、楽器自体が鳴るから、今よりずっと響きをおさえることが必要だったんだね。現代の楽器だと不要と思って無視していたペダリングも、思い出してやると、なんかちょうどいい」
「でしょ?」
「澤乃井さんは気が付いていた?」
「私は、まあ、気がついていたと言うか、もともとキーボード派なので、そう厳密にはやってなくて。なんとなくいい感じで、です」
「むしろそれがよかったのかも。さ、次はあなたの番、どうぞ」
「合唱曲の伴奏、教えてくれる?」
「冗談。好きなの、弾いてみて」
「じゃあ、ちょっと異色なやつを試してみようかな」
美琴はいつものショパンとはべつに、ひさしぶりにバッハの曲集を持ってきていた。フランス組曲からいくつかの曲は、小学生の頃に練習させられたことがあった。当時はただ指を動かして必死になっていたが、このオールドピアノなら、何か発見があるかもしれないと予想して。
楽譜を開き、しばし目を閉じてから、一番のアルマンドを弾き始めた。
András Schiff - Bach. French Suite No.1 in D minor BWV812
いきなり美琴の目に涙がにじんだ。
心にくいこんでくるオールドピアノの遠慮のない音色。
子供のときにはわからなかった音楽の背景が、さまざまな感情をともなって立体的に広がってくる。
プレイエルに翻弄される。
そこにあるリアルさ。
死も、暴力も。
でも絶望はしない。
バッハは音楽で心を救っていた。
正しい未来があることを証明していた……
「泣いてるの?」
アルマンドが終わると、浅田さんがかがんで、目に涙をためた美琴の顔をのぞき込んできた。
「いえ、これは、べつに……」
美琴は鼻をすすってごまかした。
それを見て浅田さんは首を傾げた。
「不思議ね、あなたが弾くと、確かにピアノが歌ってるみたいに聞こえる」
「そう?」
「美しい音色。ねえ、誰かに聞かせてあげたい?」
「いえ、とくにそういうつもりでは」
「ふ〜ん」
浅田さんはピアノに寄りかかってうつむき、うわばきの先を、もう片方の上履きで踏みつぶすことを、何度かくり返した。
「ひとつ言えるのは、このピアノになれすぎると、普通のピアノは下手になるかもしれない、ってことね」
「たしかに……」
「でも、こういうバックグラウンドがあるって知っておくことは、すごくタメになるね。ありがとう。伴奏、代わってくれたこと、すごく感謝しているから」
「いえ、こちらこそ」
「私も、ギリギリなんだ。初めての曲ばかりだし」
「プロのバイオリニストとのリサイタルでしたよね」
「ピアニストが病欠だから、って。でも、それ、学生にやらせることじゃないよって言いたいけど、うちの先生、それを知ってて、わざと私に回してくれたんだ」
「チャンスね」
「どうだろう。でも、やっぱ、本物のバイオリニストとやるのは勉強になる。集中すごいし、表現要求すごいし、聞く人の心をつかむのに本気出してる」
「成功を祈ってる」
「うん、あなたも。じゃ、私はこれで」
「あ、ねえ、浅田さん」
美琴が声をかけると、立ち去りかけた彼女がふり返った。
「なに?」
「ひとつ、聞いてもいい?」
「もちろん」
「浅田さんは、ピアノを弾いてて、涙が止まらなくなること、ありませんか?」
彼女は首を傾げて「特に、ないかな」とあっさり答えた。
「私、よく、こうなるんです。最近、とくに」
「病気じゃない?」
浅田さんの遠慮のない発言に、美琴は、くっくっ、と、こみ上げてくる笑いをかみ殺した。
「そうかも。いえ、ごめん、ひきとめて」
「音楽は……」浅田さんは肩をすくめた。「深い深い底なし沼みたい。だから、たぶん、泣いてるヒマなんてないんだわ、私には」
「ですね。演奏会、がんばってください」
「ありがとう。バッハ、素敵だった。じゃ」
浅田さんが去ったあと、美琴はなんとなく腹が立った。
そして、やみくもにバッハを弾きまくった。
西洋のバッハ。
なのに、集中していくと、西洋ではなく、日本の古いイメージが湧いてくる。
古い日本の長屋。
障子が全て破れ、御札のような赤い布がところどころに貼り付けてある。
いやな臭い。
乾いた冷たい風。
人の後悔をかきあつめて、練って、発酵させたかのような雰囲気。
その中のある種の匂いは、人の本能としてすぐに分かるものだった。
死臭。
高貴で優しい村がなぜたくさんの死に包まれてしまったのか……
あふれる涙をぬぐうことなく弾き続け、ふと手を止めたとき、入り口の扉を開けて音楽の北浦先生が立っていることに気がついた。
「あ、先生……」
「澤野井さん、ちょっといい?」
「あ、はい……」
浅田さんの大人びた声を、美琴は久しぶりに聞いたような気がした。ここしばらくは浅田さんこそ、ホームルームが終わるとすぐに教室を飛び出していた。
「あなたはこれから講堂でピアノの練習でしょ?」
「はい」
「でも、お昼、行く?」
「いや、パンとか買ってあるし、講堂でゆっくり、と」
「じゃあ、わるいんだけど、あの古いやつ、少し見させてもらっていいかしら?」
「プレイエルですね。私が許可を出せる立場じゃないですが、問題はないと思います。そちらの時間がゆるすなら」
「今日は少し余裕があるの」
「では、私、鍵を借りてくるので、講堂の入口で待っててください」
「了解」
浅田さんは、見た目は天然パーマのくせ毛で痩せっぽち。あきらかに下町女子ふうの見た目なのだが、じつは財閥名家のお嬢様というギャップの持ち主。
美琴が鍵もって講堂入口に現れると、すぐに扉を開けて二人でしんとした講堂に入った。
美琴が窓を開けて風通しをよくしている間に、浅田さんが先にプレイエルのフタを開けて、いきなりベートーベンを弾き始めた。
月光ソナタの激しい三楽章を1/3ほど弾いて、首を傾げた。
「やっぱり、これ、楽器としてはダメっぽいわね」
「え?」
美琴はピアノの横に立ち、浅田さんの言葉を疑った。たしかに現代ピアノのようなシャープさはないが、これはこれで素晴らしい楽器と美琴は思っていた。
「まあ、わかってたけど、正直、あなただけっていうのが、ちょっと嫉妬しちゃって」
「そんなによくない?」
「音がぼやけすぎでしょ。ピアノと言うより、地下鉄の騒音みたい」
さすがにその例えは……と美琴は苦笑した。
「ときどき、プレイエルでレコーディングする人もいるみたいだけど、私は遠慮ね」
「ベートーベンだからじゃない? ショパンなら……」
すかさず浅田さんがショパンのワルツを弾き始めた。ピアノの実力を試すように、普通よりも大げさに抑揚をつけて。
そしてふと、意外そうな顔をして手を止めた。
「そうか、これ、鳴るんだ」
「鳴る?」
「澤野井さん、気がついていた?」
「まあ、ボディのほとんどが木製だから、よく響きますよね、それがよしわるしで、濁ったりもするけど」
「うんん」と浅田さんは首を横に振った。「ただの木じゃない、マホガニーの銘木よ、これ」
「材質まで知ってるの?」
「今の安いマホガニーとはぜんぜん違う銘木中の銘木。19世紀に取り尽くされてしまったキューバの赤い宝石、いわゆるキューバンマホよ。って、そんなに不思議そうな顔しないで。うちは実家がもともと材木問屋だから」
「ああ、それで」
「ちなみに、材木屋のことは、いろいろと過去のことなので、他言禁止でお願い」
「りょ」
浅田さんが、一旦深呼吸をしてから、しなやかにノクターンを弾き始めた。
音が、急にクリアになった。
そして手を止めた。
「私、ショパンの楽譜って、ペダルの指示が早いし、多いし、ヘンだなって感じてた。その理由、わかったわ」
「え?」
「当時のピアノって、楽器自体が鳴るから、今よりずっと響きをおさえることが必要だったんだね。現代の楽器だと不要と思って無視していたペダリングも、思い出してやると、なんかちょうどいい」
「でしょ?」
「澤乃井さんは気が付いていた?」
「私は、まあ、気がついていたと言うか、もともとキーボード派なので、そう厳密にはやってなくて。なんとなくいい感じで、です」
「むしろそれがよかったのかも。さ、次はあなたの番、どうぞ」
「合唱曲の伴奏、教えてくれる?」
「冗談。好きなの、弾いてみて」
「じゃあ、ちょっと異色なやつを試してみようかな」
美琴はいつものショパンとはべつに、ひさしぶりにバッハの曲集を持ってきていた。フランス組曲からいくつかの曲は、小学生の頃に練習させられたことがあった。当時はただ指を動かして必死になっていたが、このオールドピアノなら、何か発見があるかもしれないと予想して。
楽譜を開き、しばし目を閉じてから、一番のアルマンドを弾き始めた。
András Schiff - Bach. French Suite No.1 in D minor BWV812
いきなり美琴の目に涙がにじんだ。
心にくいこんでくるオールドピアノの遠慮のない音色。
子供のときにはわからなかった音楽の背景が、さまざまな感情をともなって立体的に広がってくる。
プレイエルに翻弄される。
そこにあるリアルさ。
死も、暴力も。
でも絶望はしない。
バッハは音楽で心を救っていた。
正しい未来があることを証明していた……
「泣いてるの?」
アルマンドが終わると、浅田さんがかがんで、目に涙をためた美琴の顔をのぞき込んできた。
「いえ、これは、べつに……」
美琴は鼻をすすってごまかした。
それを見て浅田さんは首を傾げた。
「不思議ね、あなたが弾くと、確かにピアノが歌ってるみたいに聞こえる」
「そう?」
「美しい音色。ねえ、誰かに聞かせてあげたい?」
「いえ、とくにそういうつもりでは」
「ふ〜ん」
浅田さんはピアノに寄りかかってうつむき、うわばきの先を、もう片方の上履きで踏みつぶすことを、何度かくり返した。
「ひとつ言えるのは、このピアノになれすぎると、普通のピアノは下手になるかもしれない、ってことね」
「たしかに……」
「でも、こういうバックグラウンドがあるって知っておくことは、すごくタメになるね。ありがとう。伴奏、代わってくれたこと、すごく感謝しているから」
「いえ、こちらこそ」
「私も、ギリギリなんだ。初めての曲ばかりだし」
「プロのバイオリニストとのリサイタルでしたよね」
「ピアニストが病欠だから、って。でも、それ、学生にやらせることじゃないよって言いたいけど、うちの先生、それを知ってて、わざと私に回してくれたんだ」
「チャンスね」
「どうだろう。でも、やっぱ、本物のバイオリニストとやるのは勉強になる。集中すごいし、表現要求すごいし、聞く人の心をつかむのに本気出してる」
「成功を祈ってる」
「うん、あなたも。じゃ、私はこれで」
「あ、ねえ、浅田さん」
美琴が声をかけると、立ち去りかけた彼女がふり返った。
「なに?」
「ひとつ、聞いてもいい?」
「もちろん」
「浅田さんは、ピアノを弾いてて、涙が止まらなくなること、ありませんか?」
彼女は首を傾げて「特に、ないかな」とあっさり答えた。
「私、よく、こうなるんです。最近、とくに」
「病気じゃない?」
浅田さんの遠慮のない発言に、美琴は、くっくっ、と、こみ上げてくる笑いをかみ殺した。
「そうかも。いえ、ごめん、ひきとめて」
「音楽は……」浅田さんは肩をすくめた。「深い深い底なし沼みたい。だから、たぶん、泣いてるヒマなんてないんだわ、私には」
「ですね。演奏会、がんばってください」
「ありがとう。バッハ、素敵だった。じゃ」
浅田さんが去ったあと、美琴はなんとなく腹が立った。
そして、やみくもにバッハを弾きまくった。
西洋のバッハ。
なのに、集中していくと、西洋ではなく、日本の古いイメージが湧いてくる。
古い日本の長屋。
障子が全て破れ、御札のような赤い布がところどころに貼り付けてある。
いやな臭い。
乾いた冷たい風。
人の後悔をかきあつめて、練って、発酵させたかのような雰囲気。
その中のある種の匂いは、人の本能としてすぐに分かるものだった。
死臭。
高貴で優しい村がなぜたくさんの死に包まれてしまったのか……
あふれる涙をぬぐうことなく弾き続け、ふと手を止めたとき、入り口の扉を開けて音楽の北浦先生が立っていることに気がついた。
「あ、先生……」