第25話
文字数 3,228文字
犯人を連行する婦人警官のように、美琴はカズキを駅を出てすぐのコーヒーショップにいざなった。
カウンターでアイスコーヒーを二つ注文し、トレイにのせて二階へ移動。
わりと混んでいて、席の選択肢はあまりなかった。ガラスのパーティション横のテーブル席に、向かい合わせで座ることにした。
「では、あらためて、よろしく、カズキ君」
感情を押し殺した歳上女教師のような言いかた。
カズキは神妙にうなずいた。
「こちらこそです、ミコさん。自分に何ができるかわからないけど、信用はしてください。それだけははっきり言えます。まあ”それだけ”かもしれないけど」
「信用って、簡単に言うけど、けっこう難しいし、お重いことだと思うよ」
「だとしても、自分にはそれぐらいしかないし」
「そうね。わかった。じゃあ、ズバリ言うね。助けてほしいの、私のこと」
「え? 助ける……ですか?」
カズキとしては、全く予想していなかった言葉だった。それも”手助け”ではなく、”救出”のニアンス。
「今の私って、川に流されている子猫のようには見えない?」
「えっと……」
「それは、まあ冗談だけど、ここしばらく、自分の中に居座り続けている違和感はホント。昔の関係とも全然ちがう。いきなり死の臭いとか。心当たりがあるのは、プレイエルと、部長氏の夢くらい」
美琴は、ミルクもガムシロもいれていないアイスコーヒーにストローを差して吸った。
ふと、窓辺の席で楽しく語り合う二人の女子高生の姿が目に入った。携帯を見せ合いながら。髪型の話? そんな感じだよね、普通、女子高校生って。
「ねえ、カズキ君、一つ、聞いていい?」
「どうぞ」
「君は、なんで生きているの?」
「ほへ?」
美琴はあえて根本的な疑問を彼にぶつけた。
「よくわかりません。惰性、かな」
「理由がわかったら、解決する?」
「どうだろう、わからないし、そんな理由がわかったら、ノーベル賞ものかも」
「ノーベル賞でも、兄は救えない」
「兄?」
「ごめん、これは、過去のことだから、気にしないで」
「は、はあ……」
美琴は再びアイスコーヒーを一口吸ってから言った。
「一つ言っておく。君は、私を、殺してもいいよ」
美琴は、言いながら、身体の内側から笑いがこみ上げてくるのを感じた。そして、実際に笑おうとすると、笑えず、目から涙が流れ落ちた。
「君が、私を本当に大切に思っているなら、私を殺していい。そして、私の中にあるものを、バカっと開いて、中身を見せて」
「いや、たぶん、死んでしまっては、もう見ることはできないと思います」
「バカ」
カズキは、目の前で女子に泣かれるのは、初めての経験だった。ただ、彼自身は子どものころからよく泣く方だったので、気持ちはよくわかった。共有していると言っていいほどに。
「なんでだろう。すごく大切なものなの。死の匂いなのに、大切なものってわかってて、それが何か、全然わからないの」
むちゃくちゃな説明を聞いたカズキは、何も言葉にできなかった。
それでも、目の前の正直に語ってくれる女子のために、せいいっぱい手を差し伸べたかった。
氷が溶けかけたアイスコーヒーのグラスの横に、カズキは右の手の平を上向きにおいた。
「手、どうぞ」
“差し伸べる”の意味が違っていることは、カズキにも自覚があった。しかしほかにどうしたらよいのかわからなかった。それに、二人の始まりは、出会いのときも、今も、この手からだ、と直感した。
美琴は、迷いつつも、右手を伸ばし、指先で、鍵盤に触れるように、彼の手の平に触れた。男子の手に触れること……小学校の体育祭のフォークダンスではあったけれど、たぶんそれ以来。
心地よい電気。
かすかだけれど、身体にも、心にも、広がっていく。
美琴の中に、本物の安らぎが広がる。
大丈夫かもしれない。
もっと触れても。
美琴は、手の平を広げて、彼の手の平にかさねた。
これは契約?
それとも希望?
カズキは、美琴の手を見た。華奢な手ではない。ピアニストとして適度に筋肉がついた存在感のある手。
彼は、もう一方の手も前に出し、美琴の手を、上下からしっかりとおおった。
カズキも涙が出そうになった。
美琴が、ありがとう、と言いかけたとき、階下から誰かが走り込んで来る音が響いてきた。
粗野な男が壁や柱ぶつかりながら、怒鳴って階段を上がり、こちらに近づいてくる。まるで警察から逃げている強盗のように。
男は、一瞬あたりを見回し、美琴を見つけると、下品な笑いを浮かべてまっすぐに近づいてきた。
「おい、おまえ、澤野井じゃねえか、ひさしぶりだな。何よろしくやってやがんだよ、調子にのってっと、ぶっ殺すぞ」
男の臭い息が、耳元に吹き付けられる。
「なに……」
「てめえなんて地面這いずり回ってるのがふさわしいんだよ。なんだこりゃ、デートか? ふざけんな」
美琴は身震いし、声にならない悲鳴を上げ、救命具のようにカズキの手を強く握りしめた。
助けて!
いやだ!
「どうしたの、ミコさん、大丈夫?」
え?
あ……
カズキ君の声……
ここは、どこ?
コーヒーシッョプの二階?
男は?
いない。
粗野な男……
誰も気がついていない。
いや、向かいに座っている子供がこちらを見て目を丸くしている。
みまわすと、そういう人が、何人かいる。
私は、叫んだのだろう……
私の奇行に、目を向け、目が合うと、目をそらす。
静かなBGM。
バッハかな?
いや、これはモーツアルトか……
美琴は、命綱のように必死で握りしめていた彼の手を離し、両目を一旦閉じてから、ストローをくわえてアイスコーヒーを一口飲んだ。
小悪魔を胃に流し込むように。
久しぶりの発作だった。
たぶん、とんでもない大声を出していた。
誰かといるときになんて、初めてかもしれない。
しかも、いちばん知られたくないことを、一番知られたくない人の前で。
終わったな。
思えば、楽しかったし、期待もした。
でも、もう帰ろう……
美琴が立ち上がろうとすると、ふらついた。手を伸ばしパーテーションのポールを握った。
「どこに行くんですか?」
心配そうな眼差しの男子。
「いや、だって、終わったことだから」
「何が終わったんですか?」
「そんなの、言わせないでよ」
「言っていいですよ。はっきり言ってください。僕は、終わらせたりしないから。絶対に」
「え……」
小さな町の、小さなコーヒーショップで、なにやってるんだろう、私。
「言っとくけど、私、かなり面倒な女だからね」
「はい」
「少し……そう、少し、休んでいい?」
「もちろん。なにか甘いものでも食べます?」
「シャーベット、あったっけここ?」
「わからない、下にいって聞いてきます」
美琴は首を振った。
「だめ、やっぱりいかないで。今は」
「はい……」
カズキは椅子に腰掛け直した。そして力なくうなだれた。
「すみませんでした。やっぱ、手を握ったことが、原因ですよね」
「ちがうよ! ぜんぜん違う!」
美琴は怒鳴った。
いきなり店内に響き渡る大声で。
大声に、美琴自身が戸惑う。
「あ、ごめん、自制が、ちょっと、だめ。すぐ、治る。時間、ちょうだい」
やばい、本物だ、とカズキは、心の中で思った。そして同時に、本物でなにが悪い、とも考えた。
この人を守ってあげたい。可能なら、今すぐテーブルのそちら側に移って、肩を抱きしめてあげたい。
「ゆっくりでいいですよ」
と、カズキは、やさしく言った。
「僕は、ずっと、そばにいます」
「本当に?」
美琴は救助を求めるように聞いた。
カズキは、赤くなった美琴の目を見て応えた。
「高校二年だし、さすがになんでもって訳にはいかないと思います。でも、少なくとも、僕に関しては、心配は無用です。ミコさんのこと、大切にします、なによりも」
「ありがとう」
美琴はカバンからポケットテッシュを取り出し、涙を拭って、鼻をかんだ。
知られてしまった。
まあ、知られてしまったら、開きなおるしかない。