第29話
文字数 1,287文字
高校生になってから、カズキはときどき思い出したように、子供時代の夢を見ることがあった。家族三人いっしょだった頃のことだ。
郊外の中古プレハブ住宅と、これは本当にターボ必要だわ、と実感できる古い軽自動車。
その世界が、全てだった。パパとママ以外、他には何もなかった。
子供のカズキには、よく親が口にする「お金がない」ということの意味がよくわからなかった。しかし、幸せという言葉の意味は理解していた。「今が幸せなのだ」と。
だから、幸せが長く続かないことも、ある意味必然的に、あるいはDNA的に、察していた。
いなくなった母親が、今現在、何をしているのか、カズキは知らなかった。ひとつはっきりしているのは、死んではいないということ。そして、現実的に予想されるのは、また戻ってくるだろう、ということ。
あの人は、ここにある生活がイヤだから出ていったわけではなかった。旦那への不満が原因でもなかった。ただ、仕事としての可能性が残っているならチャレンジしなくてはならない、というだけのこと。
カズキの母は声優だった。
けれども、正式に離婚してからは、連絡はほとんどない。カズキも携帯の番号やメールアドレスは教えあっているが、今年は正月に「あけおめ」と交わして以来、一度も使っていない。
若くないのにバカじゃないの、とカズキは思う。しかしその反面、若さとはなんだろう、とも思う。
家を出て、離婚してまで新しいなにかに挑もうとする母親。いまさら小説にチャレンジしている警備員の父親。ふたりの気概は、むしろ普通の高校生よりもはるかに若いかもしれない。
母が好きだったのは、肩のメンテナンス。
「仕事で目が疲れるわ」と、腰掛けたところを、カズキが後ろから近寄って、肩を叩いてあげる。そして、堅くはった肩や、首をもんであげる。
「いいわ〜、これだけでもあなたを産んだ甲斐がある」
ほめられていたのかもしれない。しかしカズキは内心、バカなこと言うなよ、と、あきれて言葉を返せなかった。そしてただ、女性としての母のうなじを感じた。しなやかで、強くて、疲れている。
でも、バカなことと思いながら、不思議なことに”その台詞”こそが、いつまでも、一番、心に残っていた。
いやしかし、そんなバカな台詞を憶えているだけで、あの人から生まれてきた甲斐があると納得できるか?
カズキには、正直、わからなかった。
母のさらなる成功と、三人の親子の合流が、本当のゴールかどうかなのかも、わからなかった。
母が成功して金持ちになり、もう一度、祖父が死んだときのように金が入ってきて、住居を買い換えたり、車や家具を買い換えたりすることが、幸せなことなのかどうかも、わからなかった。
ただ、疲れて帰ってきた母の肩を、メンテナンスしてあげたい気持ち。
それは、そろそろ、別の女性に対して抱くべき感情、と思う。
母も父も、自分の道を模索している。
今、自分も、自分の道を探らなくてはいけない。
細胞の一つ一つが、自分の道を求めているのを感じる。
しかし、それが何か、今はわからない。
わからないことが、牢獄にいるようにつらい。