第15話

文字数 2,237文字

「なに、これ?」
 美琴は片耳のイヤホンを外し、動揺した内心をかくしつつ、強気の態度で質問した。
「バッハっす。998番プレリュードってやつ。平凡っぽいかな?」
「なんか、とても、温かい」
「ですよね。ときどきバッハって、めっちゃ温かい曲も作るんですよ。”トッカータとフーガ”みたいなのが有名だけど」
「でも、これ、本当に君の演奏?」
 美琴はあえて疑問を投げかけた。
 まさか、他人の演奏を聴かせてナンパしてくるということはないだろうとは思ったが、それにしても、これはちょっと良すぎる気がして。
「もちろん自分で弾いたやつ。後半はとちりますけど、前半はわりといい感じでしょ?」
「いい感じというか、マジ、美しい」
「サンキューっス。ま、それしかとりえのない楽器ですからね」
 頭をかきながら苦笑する男子。
 美琴は外した片耳のイヤホンを再び押し込む。
 確かに注意して聞くと、音の処理の不完全さもあることはわかった。たしかに目の前の男子の演奏である証は存在していた。

 最後まで聞くと、美琴はスマホを彼に返した。
「ありがとう。君ってギタリストだったのね?」
「いやいや、そんなんじゃないです。いちおう、中学までは、わりとマジでやってましたけど」
「マジ?」
「はい、教わりにいって、コンクールとかも」
 その尖ったワードが、美琴の胸に突き刺さる。
「コンクールか……」
「もしかして、あなたも同じですか? ピアノで?」
「いいえ」と、美琴はあわてて首を振った。「同じじゃない。同じなわけない。でも、音楽は、好きだった。ていうか、音楽に、救われた、かな」

 美琴は、過去を思い出し、鼻をすすって、潤んだ目で窓の外を見つめた。

「もしかして、いろいろ、あったんですか?」
 男子の問いに、美琴は身を固めた。
「うんん、そうでもない。まあ、普通」
 男子は、美琴の反応から何かを察し、言葉をのみ込んだ。
 しばしの沈黙の後、美琴は話題を変えたくて、学校の話をしてみた。
「じつはね、合唱コンクールがあるのよ」
「合唱?」
「そのピアノ伴奏を、頼まれちゃって」
「つまり、県の大会とか?」
「ちがう。ただの学内のやつ。クラス対抗で。うちのクラス、合唱部員、多いし、がんばってるの。本当は私よりピアノがうまい人はいたんだけど、その人、演奏会と重なったとかで、急きょ私が代役に。でも『引き受けてくれたら土曜の午後は講堂のピアノを使っていい』って音楽の先生に言われて、それで、つい」
「だから、この時間なんですね?」
「そういうこと」

 そこで話を終わらせてもよかったのだが、なんとなく美琴は話を続けた。

「でね、その講堂のピアノっていうが、じつは、めっちゃ特別なピアノなの」
「特別なピアノって? まさか、昔の生徒の怨念が、おんねん。どよ〜ん」
「ちがう」
「じゃあ、目玉焼きを焼けるとか? 今日も美味しそう、って?」 
「まさか。”プレイエル”ってメーカー、知ってる?」
「プレイエル? いや、聞いたことなっす。ヤマハやカワイなら知ってますが……新しいメーカーですか?」
「新しいのとは真逆。ヨーロッパのめっちゃ古いメーカー。ショパンが愛用していたことで知られるやつ」
「まじですか。それって、今のピアノと何が違うの?」

 彼も音楽好きらしく、前のめりで興味を示してきた。

「今のピアノは、こう、金属のフレームががっちりとあって、戦車みたいなのよ。レーザービームみたいに正確に音が出て、しかもパワフル。昔のは、そうじゃなくて、おおむね木製で、全体が響くの。ぼんやりしている、って感じはどうしてもあるんだけど、でも、うまく響かせると、段違いに自然に響いてくる。しかもショパンが好んだだけあって、タッチが軽くて、抜群に弾きやすい!」

 美琴は持っていた本を片脇にはさんで、両手を前に出し、高速エチュードの一節を手振りで示した。
 こんな感じ、と本を持ち直そうとしたとき、書店カバーが滑ってはずれ、カラー表紙が丸見えになった。


 『愛しているなんて言わないで♡』


 パンツが見えかけのミニスカート少女が、弾けそうな笑顔でウィンクしている。
 男子生徒はそれをまざまざと見てしまった。

 美琴は、せきばらいをして、書店カバーをまきなおした。
「いや、これは、ただの借り物だから。友人に強引にすすめられただけ。気にしないで」
「わかりやすいタイトルですよね」
「はあ? やめてよ、かんちがいしないで。私は好き好んでこんなの読むわけじゃないし」
 それを聞いて、彼は含み笑いをもらした。
「偶然ですね。その本、僕も同じでした」
「同じって?」
「”あいない”、ですよね。最近、すすめられましたよ、部長から強引に」
「部長?」
「はい。まさか同じ本なんて。ていうか、それ、やっぱ本当に人気なんですね」
「知らないわよ」と美琴はあきれた。「私は興味ないし」
「僕も同じです。知らないし、興味ない。でも、そんな僕たちに、強引にすすめたがる人がいるって、なんか、面白いですね」
 天真爛漫に微笑む男子。

 男子生徒は、憧れの他校の女子が落としたしおりを、思い切って拾ってあげた勇気が正しかったこと、そのうれしい事実を、内心、しみじみと感じていた。
 数本の列車をやりすごし、窓越しにやっと目的の女子高生を見つけて乗り込んだところ、発車直後にあの出来事。
 そこで反射的に行動したことは、まちがいではなかった。
 いきなりこんなに会話ができるなんて。
 しなやかな指の動きは、本当にピアニストのもの。
 たしかに、まちがいではなかったのだ……
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