第12話

文字数 1,136文字

 音楽教師は、50歳くらいの豊満な女性で、そのオペラ歌手のような外見通り、声楽が専門だった。
 美琴は、もともと歌うことが得意ではなかったが、教師はおりを見て発声のやり方を彼女に教えた。

 ある日、先生のすすめで、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハのアリア」をやってみた。
「あなたの気持ち、ぶちまけていいから」と楽譜を渡され、美琴は二週間ほどピアノを練習した。
 ある土曜の午後、ついに美琴がピアノ伴奏を担当し、先生が歌った。

※サンプル演奏
Anu Komsi sings Villa-Lobos' Aria-Cantilena
https://youtu.be/yqfHLqZaSiw

 不登校のリアルをまるごとぶち込んでも、牛一頭分のおつりがくるほどの激しい感情の嵐。
 すぐに「交換しましょう」と先生がピアノに座った。
 美琴は断ろうとしたが、先生は強引にピアノを弾き始めた。
 声楽経験のない美琴に出せる声など、メロディの半分もなかった。
 それでも全力で歌った。
 涙でぐしょぐしょになりながら。
 終わると、音楽教師が、嗚咽する美琴の肩をしっかりとした手で抱いてくれた。

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 歌に興味を持った美琴だったが、2ヶ月ほど経たとき、教師は微妙な反応を彼女に伝えた。
「あなたの声は、やはりクラシックは向いていないかもしれない」
「ダメですか……」
「ダメじゃないけど、方向性がちがうかな」
「方向性?」
 音楽教師は、苦笑して肩をすくめた。
「澤野井さん、フェルメールって知ってる?」
「作曲家ですか?」
「いいえ、オランダの画家」
「フェルメール……いちおう名前だけは聞いたことがあるかも」
「日常を切り取ったような小さな絵なのよ。生涯で35点くらいしか残っていなかったはず。全てを一堂に集めたとしても、たぶん教室の三つもあれば展示できてしまうくらい。でもね、それでも、フェルメールという人は、まちがいなく『人類史上最高の画家』の一人なの」
「何がそんなにすごいんですか?」
「たぶん、繊細さ、かな。ただの日常なのに、なによりも美しく輝いているの。わかる?」
「繊細さ、ですか」
「そう。あとは精度」
「つまり、私に、そういうふうになれってことですか?」
「『なれ』なんて言えないわ。ただ、それに近い可能性を感じる、ってところかな。あなたの声は、ホールに響かせるより、高性能マイクで収録したほうが説得力が伝わると思う。『あー』って声、出してみて。音程はどれでもいい、長くして」
「あー」
「のばしたまま、 小さく。もっと小さく。ギリギリまで小さく」

 細く小さくした声。

 それは兄の最後のひと息のように感じられ、見えない波紋のように、午後の校庭を越えて、広い空に広がった。

 教師は笑みを浮かべてうなずいた。
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