第58話

文字数 4,629文字


「するなら、ここでやりなよ」
 朱先生があっけらかんとおっしゃった。
「ここ?」
「そう。広い方で。なんなら、私も聞かせてもらうし」

 夏休み中の文芸部部室&書道教室なんて完全に無人と思い込んで、カズキはギターケースをかかえてやってきたが、じつはそこには一人、とんでもない人物が生息していた。
 朱(しゅ)明(みん)先生。
 私立川合高校の書道教師にして、書道協会所属の書家。
 秋の展示会に向けて、一人で本気合宿中だった。

 ギター練習のために来たカズキは、文芸部の申請書を書いて休日当番の教師に届け、鍵を職員室で借りてきていた。
 しかし書道準備室の鍵はすでに開いており、おかしいな、と思いながら中に入ると、隣の書道教室から「はあっ!」と叫び声が響いてきた。
 なにごとぞ、とカズキがおどろいて教室へのドアを半開きにして覗くと、広い教室の真ん中で、上半身裸の朱先生がヨガのポーズのようなものをやっていた。
 ヤバイでしょ、こんなところでギター練習できないよ、どうしよう、とドア半開きのままカズキがとまどっていると、気がついた朱先生が明るく声をかけてきた。
「どうしたの、夏休みなのに」
「ここでギターの練習でもさせてもらおうか、と……」
「それは、わざわざ。がんばりますね」
「先生こそ」
 いちおう準備室の方には、エアコンのスイッチが入っていた。先生にとっても控え部屋だったらしい。飲みかけのペットボトルも置いてある。
 それに対して、本気勝負の書道教室は、窓が大きく開けられ、汗がしたたる修行の場。お香の神秘的な匂いが漂っている。

「私は、秋の作品展に出すものを作ろうとね、悪あがき中。今年は気合い、入れたくて」
「毎日来てるんですか?」
「ちがうよ。終業式の翌日から、ずっとここに泊まり込んでます」
「マジですか?」
「ねえ、これ、どう思う?」
 朱先生が一枚の作品を持ち上げてカズキに差しだした。それは泊まり込みで書いているわりには小さめで、30インチモニター程度のサイズだった。
「とても丁寧に書いてある、と思います」
「パッション、ないよね」
「パ、パッションですか?」
「うん。でも、勢いで書いてもダメだと思うんだ。勢いで書くと、どうしても筋肉や骨の動きで書いてしまうからね。心を映さなくては意味がない。力ではなく、心のパッション。わかる? ギターも同じでしょ?」
「お、同じかなぁ……」
 苦笑するカズキを置き去りにして、汗をしたたらせた朱先生は早口で話を続けた。
「私の母が、こないだ亡くなってね。病床の病院には、小ぶりの作品をとどけましたよ。安らかな、感謝を伝えられるもの。母は喜んでくれて、日本に移ってきた苦労とか、今まで聞いたことなかったことも話してくれてね。台湾の故郷に戻れなくても、おまえの書があるから大丈夫だよ、って言ってくれました。それは、全部、本当。うそじゃない。私たちの生き様には、なによりも書がある。それを私は強くほこりに思う。でも、死んだら、それでいいのか? なにかちがう気がする。もっと、ぐわっと、そう、ぐわばっとして、でも、風のゆらぎのようにシーンとして。
 ほら、今、母はここにいる。わかる。だから対話してる。ずっと話しあってる。何が答えなのか。何が原点なのか。何が人を苦しめ、何が人を傷つけるのか。何が喜びで、何が絶望で、何が価値なのか」
 一気にまくし立てた朱先生は、額の汗をぬぐって、新しい白い紙をにらみつけた。
「母を、紙に残したい。言うのは簡単。でも、まだできていない。やるまで、帰らないと決めた」
「は、はい……」
「海和君だよね。君のお母様はどうなのかな。まだお若いだろうけど」
「若い……ですかね、ははは」
 
 カズキは、ふと、自虐的な発想を思いついた。むしろ対抗して、全部ぶっちゃけてしまうのも、ありじゃね?
 
「先生、僕は、その、なんて言うか、こう見えて、いくつかとんでもない秘密をかかえています。先生を本物のアーティストと見込んで、ひとつ、真実を話してしまってもいいですか?」
「いいね。ぜひ、たのむよ」
「でも、悪いけど、知ったら、先生にも大きな責任が発生しますよ。わかりますか?」
「大丈夫。私たち、いろんな苦労してきた。守るべきことは必ず守る」
「じゃあ、言いますよ。うちの母は、じつは、幼女なんです」
「え……」

 先生がとまどう。

「公称14歳だったか。ネットで、動画配信してるんです。ブイチューバーと言って、3Dのコンピューターグラフィックで動く少女の姿を作って、それが実物に合わせて動いて、目をパチクリしたり、首を傾げたり、頭を振ったりですね。で、声がうちの母」
「声優の方?」
「大昔に声優だったことがあるのは自分も知ってました。でも、事務所はずっと昔に辞めてるし、今さらそんなことやってるなんて、じつは知ったのはほんの数日前のことです。いいですよ、誰だってやりたいことがあるなら、やれば。でも、あの人、母親としてのこと、なんにもしてないんですよ。うちは父親も自分のやりたいことやりたいって言って、実家の財産入ったら離婚して、別居して。僕の中学卒業も、高校入学も、母は家にもいませんでした。別に子供じゃないし、そんなのいいと言えば、いいんですけど、でも、何か大切な仕事で多忙だからしかたがないと、僕は信じていました。なぜ多忙なのかはずっと教えてもらえなかったけど、なんなら国際援助ボランティアでアフガニスタンでも行ってるのか、と思いました。ホント、そう考えたりもしたんですよ。戦場に近いって危険じゃないかな、とまで。でも、実際は、幼女姿で、メルヘンチックな部屋の背景に、牧歌的なBGMがかかって、『どうもー、こんにちはー』ってやってて。しかもその内容がゲーム実況。バカみたいですよね。ほんと、バカですよ。バカ以外の何ものでもない。それがうちの母親。誰にも言ってはいけない業界の秘密だってことですけど。先生、マジ、バカバカしいけど、誰にも言わないで下さい」

 カズキとしては、内にたまっていたことをぶちまけるいい機会だった。言いたいだけ言って、さっぱり。
 それだけでいいことだったが、しかし朱先生は、泣いていた。両目から本物の涙があふれていた。

「そうか。なるほどね。ははは。ありがとう」
「……は?」
「ヨガというのは、身体の神秘だが、身体だけではなく、宇宙とつながる。宇宙の意思が、共時性と、ヒントをくれる。いや、答えと言いきるべきかもしれない」
「いや、先生、僕はただうちの親がネットで幼女やってるってアホなこと言っただけですが?」
「それだ。それなんだよ。まさに。つまり、私はね、母の、母親としての努力とか、台湾から来て日本で暮らすことの苦労とか、それは美談としてあるにしても、それでは足りないと、暗に感じ続けてきた。もっと母の本質に近い、尊い何かに、書でせまりたかった。迫れるはずだと、悩んでいた。そうだよ。そのおとり」
「……つまり?」
「若き母。彼女の”若き少女”としての輝きこそ、書くべき本当の母だったんだ。これからの人生、どういう人と結ばれ、どういう子供を持ち、どういう暮らしを送るのか、それを夢見ていた一人の少女。その夢を、本人が死んだ今、私が書で形にする。永遠に残る一枚の書として。書が美しいんじゃない。表面上の美なんて価値ですらない。そんなことを超越して、ひとりの少女としての存在こそが、その輝ける魅力こそが、最も尊い価値だったんだ」

 朱先生の額から汗がしたたり、目から涙があふれ、壊れたように笑いながら、その全存在が宇宙的にサッパリと輝いていた。

「君、今日はギター、練習に来たんだね?」
「まあ、いちおうそのつもりでしたが」
「わるいね。今日は使わせて。今日だけは。しかし明日から、ここは君のものだ」
「先生」
「なに?」
「僕、手伝いますよ。買いもの、行ってきます。なんでもほしい物言ってください」
「じゃあ、飲みもの。あと、スイカ。とびきり美味しいやつね。準備室の私の鞄の横に財布入ってるから、一万円ぬいて好きに使ってきていいよ」
「食事は?」
「バス停をひとつ行ったところに、豆腐屋があるの知ってる?」
「なんとなく」
「そこで、絹ごし二つ。あと、可能ならスーパーで薬味としょう油。とりあえず、それがあれば私は大丈夫。カップ麺とかおにぎりとかは、気が散るから買わないで」
「わかりました。じゃ、行ってきます」
「ありがとう。君のお母さん、最高だ」

 カズキは、高校を出て、わざとゆっくりと買いものをした。
 豆腐店はわかったが、飲みものの希望を聞いていなかった。
 準備室には小さな冷蔵庫もあるので、多めに買っても問題はない。
 スーパーに入り、天然水、エナジードリンク、コーラ、炭酸水、あと、フルーツ系でバイナップルジュースの紙パックを。
 1/4の少し大きめカットスイカを買ったついでに、野菜コーナーでカット薬味セットがあったのでそれを買い、値段高めの高級しょう油も買ってしまう。

 まあ、こんなところでしょうと思って、約一時間半後に戻ってみると、朱先生は大きな仕事をやり終えていた。部屋に入った瞬間、雰囲気でそれがわかった。
「ありがとう、暑いのに買い出し悪かったね」
「終わりましたか?」
「いちおうね。しかし感覚的には終わったけど、せっかくだから作品展用に、もっと書きたいと思う。次は大作ね。まあ、今までは自分のためだったけど、ここからはビジネス」
「スイカと豆腐、食べてから?」
「そう。いったんコンディション整えてから挑むよ。君が来てくれたのも、運命だったんだね。この幸運を活かして、書けるだけ書いておきたい」
「がんばってください!」

 朱先生はスプーンで豆腐をゆっくりと口に運びながら「ところで」と言った。
「君が来たのは、ギターの練習のためだったね」
「はい」
「コンクールか何か、やるの?」
「八月末に東日本ギターコンクールというのがありまして」
「そっか。がんばって!」
「あと、もう一つ、僕の秘密に関わることなんですけど、ギターを聴かせてあげたい人がいるんですよ」
「死ぬの?」
「なんで、わかるんです?」
「なんでかな。今、気がはってるからだと思う」
「本人が死ぬのではなく、ある人の中に過去から来ている人格が、ってことですけど」
「わかった、それも他言しない」
「ありがとうございます」
「私は、今日で終わらせるよ。遅くなるかもしれないけど、今日で燃えつきる。だからそれも、するなら、ここでやりなよ」
「ここ?」
「そう。聞かせてあげたいんでしょ? こっちの広い方で。なんなら、私も聞かせてもらうし。でも、エアコンの効きが悪いから、コンサートやるなら夕方以降がいいね」
「先生がいてくれたら安心ですね」
「文芸部の平沢先生は信州の人だから、もう帰省してるでしょ」
「部室の上に、顧問がわりまで。ほんと、すみません」
「いいのいいの」
「みんなに都合聞いて、二、三日後に予定入れていいですか?」
「どうぞ」
「じゃ、僕は、今日は、帰って練習の続きします」
「おたがいがんばろう。メアド、書いておいといてくれる?」
「わかりました」
「さて」

 朱先生は、あらためてお香に火を点けた。
 カズキは、アドレスを書いたメモを机に置くと、深く頭を下げて、取り出すことのなかったギターをケースに入れたまま肩に提げて、書道教室をあとにした。

 練習はできなかった。
 しかし、それ以上の最高の刺激。
 これでみなぎらなかったらウソだ。
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