第14話

文字数 2,715文字

 
「それは、ピアノですか?」

 え?

 いきなり男子からの問い。
 美琴は、おもわずまじまじと相手を見すえた……
 
 学校帰りの列車の中だった。
 土曜の遅い午後のローカル路線で、客はまばら。
 最初、美琴が乗ったときは、ところどころに空いているシートを無視して、いつも通りポール脇に立ったまま、思いついた詩をノートに書き留めていた。
 詩の価値なんてわからないし、特に目的があるわけでもない。しかし「詩を書く」という行為はクセになった。閑をみて試行錯誤が続いていた。

 二駅が過ぎ、男子校の最寄り駅に到着すると、美琴は秘密の詩集をカバンにしまい、かわりにどうでもいい文庫本を取り出した。
 まばらに男子生徒たちが乗ってきて、空いていた席をうめ、列車が走り始める。
 美琴はポール脇に立ったまま、手に持った本を開いた。まだ読み始めだったが、いちおう”しおり”は、はさんであった。ページを開こうとすると、その紙片が落ちた。

 それは昨夜キッチンに転がっていたおでんセットのラベルだった。
「おでんセット」という、場違いな文字が、ひらひらと車内を舞う。

 すると、近くの男子が気がついて拾ってくれた。
 先ほど乗ってきた男子高校生の一人だった。
 彼が差し出す”しおり”を、美琴が受けとる。

「すみません」

 すると男子は、受けとった彼女の手先をしげしげと見て質問を口にした。

「それ、ピアノですか?」

 美琴の手に外見的な特徴があるわけではない。ピアノのタトゥが入っているわけでもなく、弾きすぎてマメができていたわけでもない。しかし彼は、まるで珍しい昆虫を発見した子供のように、静かに目を輝かせた。

「なぜそんなことを?」
「だって、指の動きが、ピアノっぽいから」

 指の動き?
 美琴は苦笑した。
 そんなこと初めて聞いた。
 ていうか、もしかして、これ、今どきのナンパってやつ?
 くだらない。

「拾ってくれたことには礼を言うけど、でも、ピアノとか、関係ないですよね?」
「でも、弾きませんか?」
「まあ、弾かないとは言わないけど」
 渋々うなずく美琴に、男子生徒は、満面の笑みを浮かべ、さらに質問を続けた。
「そのしおり、おでんのラベルですよね?」
「いや、これは、たまたま昨日、台所にあったやつを、適当にはさんでおいただけだから気にしないで」
「この冬、僕もだいぶ作ったんです、おでん。だから、それ見たら、なんか、うれしくて」

 作る?
 男子高校生が?

「おでんだったら、何が好きですか? 大根やコンニャクももちろんいいですが、僕は、意外にあの小さなやつ、タコボールが好きです。脇役っぽいけど、美味しいし、よく出汁がでますよね。あれ、でも、イカボールだっけ? タコボールかな? タコ、イカ? あれ、どっちだ? わかんない……」

 彼は急に冷や汗をかきはじめた。
 美琴は冷たい視線を送った。

 男子は、私立川合高校の黒い詰め襟制服を着ていた。
 川合高校といえば、都内有名私立ほどではないにしても、ある程度は成績優秀で知られた進学校だ。なかにはチャラチャラしたグループや、五分刈り体育会系生徒もいなくはなかったが、ほとんどは黒い制服に相応しい実直な男子たち。
 目の前の男子も、実直な生徒の一人と思われた。長めの髪はオシャレでそうしているのではなく、ただ床屋に行くのをサボっているという感じ。体育会系というよりは、やはり文化系だろう。ただし平均より身長の高い美琴より、さらにはっきりと背が高い彼のすっきりした目元のあたりには、知的な鋭さと、生来の優しさが、ナチュラルに混ざり合っているように感じられた。

「まあ、おでんの話はいいか」
「……」
「あ、でも、楽器をやっている人の手の動きなら、わりとわかるのは本当ですよ。自分が、そうだし」

 彼は、サッと両手を前にさし出し、指を細かく動かした。
 しなやかだな動き。しかし、いやらしく動いているわけではなかった。なにか精巧なものを操作するかのように、各指の第一関節、第二関節などが、それぞれが小さな“意味のある動き”を内包していた。

「それ、楽器?」
 美琴は首を傾げた。
 男子は「その通り!」とうなずいた。
「そっか、あなたもピアノを弾くのね」
 ピアノか、やれやれ……と、ため息をもらした美琴に、男子はあわてて首を横に振った。
「いや、ピアノはやりたかったけど、あいにくぜんぜん縁がなくて」
「ちがうの?」
「ちがいます、すみません」
「じゃあ、ハープ?」
「そんなの、もっと縁がないです。ハープが趣味なんて、家がお城ですか、ってハナシ。本当のこと言うと、自分はただのクラシックギターです。ほら、祭りの出店とかで売ってるやつ」
 美琴は、アニメキャラのお面や、焼きそばを売っている屋台をイメージしてみた。しかし、ギターは……。
「そんなの売ってたっけ?」
「すみません、それは冗談。でも、なんか、そんな感じのやつ。だって、クラシックギターだから」
「えっと、そんな感じの楽器……だっけ?」
 と、美琴は首を傾げて考え込んだ。
「いや、マジで考え込まないでください。すくなくともバイオリンやピアノのように華々しくはない、それだけは確かです」
「で、君は、それを『専門にしている』と?」
「ですね、いちおう。そうだ、聞きますか?」
 彼は、すぐさまワイシャツの胸ポケットに無造作に押し込んであったスマホをとりだし、美琴に差しだした。
 いきなりのことに美琴はとまどった。
「ききききき、聞くって、今、そこに、あるの?」
「あります。って、まあ自慢するほどじゃないですけど、練習で録った自宅録音なら」
 美琴は一瞬、考えた。”男子”は苦手だが、音楽は嫌いではない。彼の自宅録音が、はたしてどの程度のものか。その下手さくらい、確認してあげてもいい。

「じゃ、せっかくなので少しだけ」
「イヤホン、持ってませんか?」
「あるけど」
「しょぼいスピーカーより絶対その方がいいんで」
「わかった」

 あらためて美琴がカバンから取り出したイヤホンのジャックを、彼のスマホにつなぐ。イヤホンを耳にさしこみ、意識を集中する。
 学生っぽい下手な演奏をイメージしていた美琴に、いきなりピュアで健康的な音色が降り注いだ。

※サンプル演奏
J. S. Bach, Prelude BWV 998 by Tatyana Ryzhkova
https://youtu.be/zaF0vu_AMSo


 いい音。
 このやさしさ、なんだろう?

 あの朝、
「まって、おにいちゃん」
 と、美琴が声をかけると、兄は微笑んで「わかったよ」と足を止めて、いつもどおり手をつないでくれた。
 あの瞬間を、もし音にしてみたなら、こんな感じかも。

 なに? 
 涙?
 あわてて顔をそらす。
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