第20話

文字数 1,523文字

「ごめん、立ち聞きなんかしちゃって」と北浦先生は素直にあやまった。「でも、なかなか気高い演奏ね」
 美琴はあわてて鼻をすすった。
「そんなことないです、ひさしぶりだし、たどたどしくてミスばかり」
「でも、音に血が通っているわ」
「ありがとうございます」
「このオールドピアノも、本来の美しさを取りもどしかけてる気がする」
「私は、好きですよ、このピアノ」
「さすがね」
「いえ……」

 音楽教師は、音楽をどうとらえているのだろう、と美琴は考えた。バッハを弾いたら、先生も、涙、流すのかな……

「澤乃井さん、あのね、正直、私も、自分で不思議なのよ」
「何がですか?」
「あなただけにこのピアノの使用を許可したこと」
 美琴は、ハッと、した。
 私だけの許可のはずだったものを、クラスメートの浅田さんに弾かせたこと、先生に気づかれたのか? やってはいけないことだったのか……
「タイミング的には、修理上がりで、誰かに弾き込んでもらうのは理にかなっているんだけど」
「すみません」
「いや、なにあやまってるの。あなたに弾いてもらって、このピアノも喜んでいると思うわ。結果オーライ。ただ……」
「ただ?」
「なんか、私、澤乃井さんがいい、って思ったの。”ふさわしい”って。そこが自分でもよくわからないのよ」
「え?」
「合唱の代理伴奏を頼む理由にはしたけど、なぜか澤乃井さんだったの。後で考えると、自分でもヘンなことしたかな、とかね」
「そういえば、さっき、イメージが湧きました」
「イメージ?」
「人の死の臭いみたいな。すごく悲しい記憶」
「あらあら」
「このピアノから伝わってくる隠された想い、みたいなものでしょうか?」
「ピアノの幽霊ってよく聞くけど、このプレイエルでそういう逸話は聞いたことがないな」
「ですよね。たぶん気のせいですね」
「ただ、古いのは事実だし、いろいろあったのかもしれない。いずれにしても、大切なピアノであることには変わりないわ」
「ですね」
「ところで、澤野井さんは、たしか音大志望ではなかったわよね?」
「はい、今のところはちがいます」
「なぜ? その繊細さ、趣味にしておくのは、もったいないんじゃないのかな?」
 北浦先生は指導者らしい真面目な眼差しになった。
「だって、私……無理ですから」
「どうして?」
「うち、お金ないし」
 現実は現実だった。
 しかし、それでも音楽教師は前向きに続けた。
「奨学金とか救済制度はないわけではないし、もしあなたが音楽でいくなら、私はお手伝いできると思うわよ。そのときは遠慮なく言ってね。才能ある人を伸ばすほど、教師にとって嬉しいことはないのだから」
「先生、でも……」
「なに?」
「その『才能』って、なんですか? 私、わからないんです、本当に」
 先生はピアノの縁に手を当て、古いニスの質感を確かめるように指でなぞった。
「あなたがわからないのは、才能ではなく、むしろ、才能の使いかた、じゃないの?」
 美琴は小さくため息をつき「同じことだと思います」とつぶやいた。
「同じじゃないけど、今のあなたにとっては、同じことかもしれない。それは何となく分かるわ」
「よく、分かりません」
「そうね。それにしても、あなたにまかせたら何かを感じるかもしれない、と予想していないわけじゃなかったんだけど、まさか、死者の臭いとは……」
「すみません、へんなこと言って」
「いいのよ、直感から広がる可能性もあるわ。これは何かにつながっていく入り口よ、きっと。さて、私は帰らせてもらうわ。あなたはまだ弾いていくでしょ?」
「できれば」
「下校時間までは自由にして。私は予定があるの。カギはいつもどおり職員室の机の上に。じゃ、またね」
 先生は、いつものほんわかした表情に戻り、片手を上げて去っていった。
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