第54話

文字数 3,115文字


 夏休みに入って最初の日曜日に、カズキは新しい指導者からギターレッスンを受けることとなった。

 カズキから矢部先生に「夏休みなのでいつでも大丈夫です」と伝えたところ、日曜午後にきめてくれた。
「遅れないように行ってね、いそがしい人だから。じゃあ、がんばれー♪」
 とメール。
 僕のことをまだ小学生と思ってない? とカズキは苦笑した。

 会計士の飯田さん。
 調べてみると確かにわりと近く、ギターケースを背負ったまま自転車で行ける距離だった。
 しかし真夏の自転車は、問答無用の汗だく苦行。
 背中にギターケースを背負って、約3キロの道を走り、『飯田会計事務所』の看板を見つけて門についたときは、カズキとしてはアイスコーヒーでも飲んで涼んでからにしたいところだったが、その時間的な余裕はもうなかった。
 インターフォンを押すとすぐに
「どうぞ」
 スピーカーからぶっきらぼうな男性の声が響いた。
 一瞬にしてカズキは嫌な予感に包まれた。
 
 白い大型車の脇をすりぬけて、玄関のドアを開けると、白いシャツに黒縁眼鏡の男性が立っていた。
「矢部先生から紹介を受けました海和です。このたびはお忙しいところお邪魔させていただいてすみません」
「どうぞ」
 また、ただひと言。
 
 馴れ合いはしない、というスタイルなのか。
 飯田氏は、カズキにスリッパをすすめてから、中に案内した。
 事務机が6個あわせておいてある無人の事務所をぬけて、奥の会議室へ。
 会議室の中は、すでにソファーをずらしてギターを弾くスペースが作ってあった。イス、足台、譜面台が置いてある。
 カズキの汗だくな姿を見て、飯田先生は黙ってエアコンの設定温度を下げ、小型冷蔵庫から水のペットボトルを出した。
「どうぞ。汗がひくまで楽器はムリだね。私は仕事に戻る。20分たったら来るから。音は気にせず出していいので」

 最低限の説明と、ピンとした緊張感。
 こんなレッスン、初めてなんですけど、とカズキはあせる。
 子供のときからお世話になっていた矢部先生は、ときどき厳しいことも口にはするけれど、たいがいはいたって優しい人だった。悩みは誠実に聞いてくれたし、修正箇所もかみ砕いて説明してくれた。なによりレッスンの最初は「最近、どう?」と、なごやかな日常会話から始まったものだ。
 ここでは、そういうことは一切なし。
 水のペットボトルをさしだして「どうぞ」。
 20分放置。
 
 とりあえずカズキは、汗だくを予想して持ってきたタオルで身体を拭いて水を一気に半分飲んだ。

「さて、はじめようか」
 時間になると飯田先生が戻って来て、カズキの向かいのソファーに腰掛けた。
「どうぞ」
「あ、はい。曲は……」
「弾いていいよ」

 なんと「弾いていいよ」のひと言ですか。
 自己紹介も日常会話もなしですか。
 クソヤバイ。
 気持ちが、ぶっ飛んでる。
 心が祭りのように舞う。
 まあ、ある意味「コユンババ」は、そんな曲でもあるけど。
 突撃開始!


 攻撃終了。
 さて戦果は?


「うん……」
 と深いため息をつく飯田先生。
 たしかに、いきなりの演奏で、十分でなかったのは認めますが、普通、まずは良かったところをほめますよね。そのうえで、おもむろに問題点を指摘しますよね……

「本番は八月末だよね」
「はい」
「ムリじゃないか?」

 ……え?

「君はなぜこの曲を選んだの?」
「中学の時に挑戦して、うまくいかなくて、まあ、はっきり言って玉砕して、それがトラウマというか、苦手意識というか、そんな感じだったんですが、そのあとに引っ越しもあって、しばらくギターから離れてしまって、まあ、全くやってないわけじゃなかったんですが、コンクールは、申し込みの方を母が……」
「いや、君の事情はいいよ」と飯田先生はカズキの説明を冷たくさえぎった。「弾けるか、弾けないか、だから」
「はい……」

 しかし、今からでは、曲は替えられない。
 それはコンクールの基本ルールとして誰でも知っていることだ。
 ではどうしろと?

 飯田氏は、手をさしだした。
「ちょっと、楽器、かして」
 言われるままにカズキがネックを持ってギターを差し出すと、飯田先生は受けとり、ソファに足を組んで構えた。
 重々しい1楽章と、攻撃的な4楽章を、部分的に弾いた。
 完璧だった。
 大胆な迫力。正確さ。
 一音一音の明瞭さと、叙情に充ちた音色。
 ギタリストを本業にしていない、ということが信じられないほどだった。

「悪くないな、このギターは」

 悪いのはギターではなく、僕のうでということ? わかっているけど、その露骨さ、さすがにひどくね?

 先生はラベルも確認せずにギターを返してきた。

「君は、この曲で、伝えたいものがあるの?」
 
 伝えたいもの……、中学時代はそこまでは考えていなかった。なんとなく印象的で、インパクトが強いから、と選んだだけ。しかしコノハの過去を知った今は、全力で表現したいものが確かにある。

「あります」
「じゃあ、まず、それを捨てようか」

 ……え?
 それを大切にしよう、ではなく、捨てる?

「君は、自分の音が聞けていない。主張があるのは悪いことではないが、それが強すぎて、自分が出している音を自分で判断することができていない。客観性がない」
「たしかに……でも、弾くということは、自分の音が頭で鳴って、それを外に出そうとすることですよね?」
「出さないようにすればいい。たとえば、ここ。速度を極端におとして弾いてみて」

 それは、難しいところではなかった。ゆっくり弾いても、特に破綻はしなかった。

 飯田先生は、ケースから自分のギターをとりだし、サッと調弦すると、同じところを、さらにゆっくりと弾いた。
 全然、ちがった。
 ゆっくりだと、よけいに、根本的に、何かがちがう。

「わかるか?」
「ちがう、という感じは、確かに」
「どこがちがう?」
「正確さ?」
「タイミングだ」

 カズキがそこを再度弾くと、欠点が浮き上がった。
 なんか、もったりしてしまう。

「たしかに、ずいぶんちがうのはわかります」
「ギターやピアノは、弾いて音を出す楽器。野球のバッティングと同じ、バットを構えて、ふりおろしてきて、バン!」
 先生は手を強くたたいた。
「この瞬間に、身体全体の力が、ピンポイントで集約するから、ボールが大きく飛んでいく。ギターも同じ。右手も、左手も、一音一音にピンポイントで合わせる」
「それぞれの音に?」
「そう。特に右手。強く弾けばいいということではない。タイミングを合わせるんだ」
「メリハリですか?」
「うむ、まちがいではないが、大切なのは、一瞬のバン! 押さえる指も、弾く指も、正しくピントが合えば、技術的な余裕もできる」

 飯田先生は、まるでレッスンが終了したかのように、自分のギターをケースにもどした。
「ところで、本来なら、数ヶ月前には曲を自分のものにしておかなくてはいけない。今からのレッスンで何ができるか、だが、私にできるのはヒント伝える程度。あとは君自身で完成させてみて欲しい」
「はい……」
「まあ、意外とこの曲は、君にむいているかもしれない」
「むいていますか?」
「古典よりは、いいと思う。それに、なにか思いも、伝わってくる」
「は、はあ……」
「君が個人的にこの曲にこだわることは、私はまちがいとは思わない。しかし、今の問題は『弾けるかどうか』だ。まあ、夏休みだろし、集中すればある程度のことはできるかもしれない」
「わかりました、ありがとうございます」
「ただし、あまりムリはしないように。とくにこの曲は力の入れすぎで指をこわしやすい。まずい、と感じたら、すぐに止めること。逆にイメージトレーニングが有効なこともある」
「え?」
「いや、なんでもない。続けよう」
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