第45話

文字数 2,621文字


 7月の女子校の昼休み。いちおうエアコンはついているが、あまり効きがいいとは言えない。
 母が作ってくれたお弁当をさらっと食べ終えた美琴は、机に伏して昼寝に入ろうとしていた。
「み・こ・と、ねえ、どう最近?」
「ん?」
 美琴が顔を上げると、友人の雪乃がまん丸の目を広げて立っていた。
 井上雪乃、美琴の一年のときのクラスメートで、漫画研究会に所属するバリバリの腐女子。パンツが見えそうなカバー絵のライトノベルを美琴に貸したのも彼女だった。
「なんだ、雪乃か」
「合唱大会、おつかれさま。やっぱミコのピアノは段違いで素敵だったよ」
「ありがとう、お世辞でもありがたいわ」
「ホントだって。謙遜するな、コノヤロー、可愛い顔しやがって」
「やーめーて、怒るよ」
 二人は最近、合唱祭や試験勉強などいろいろあって、あまり話す機会がなかった。
「ね、夏休み、どうするの? ミコって、部活やってないでしょ」
「うん……ま、ゆっくりするよ」
「そんなお年寄りみたいな無計画じゃいけないと思う。ね、今日の放課後、漫研、来ない?」
「いいけど、”あれ”、手伝わされるのかな?」
「”あれ”は、いや?」
「手伝うこと自体はいいんだけど、そこに描いてあることがね」
「ごめんね。やっぱりミコは、ホモよりレズよね」
「いやいや、どっちでもないですから!」
「そんなにかたくなに否定されると、私が変態みたいじゃない……」
「ごりっぱに変態さんですがな」
「そんなにはっきり言わなくても……」
「まったく、なんで雪乃みたいにもてそうな女子が、男のエロシーンばかり描くかね」
「需要、あるのよ」
「需要の問題じゃなくて」
「ま、待ってるから来てね」
「りょー」
 美琴はだるそうに片手を上げて、再び机に伏す。しかし数分で予鈴が鳴った。授業開始3分前。
 寝られなかった、ザンネン。
 舌打ちして美琴がスマホを確認すると、めずらしくカズキ君から昼メールが来ていた。
 緊急かな?
 なんなら、私、かけつけるよ。
 先生、すみません、知り合いが救急車で運ばれました急いで行ってきます! とエスケープ。
 そんな白昼夢にあこがれながら、確認したメール。


《期末試験 めんどくさいと 蝉が鳴く》


 なに俳句ってんの。
 まあ、期末試験がめんどくさいのは同意するけど。
 男子文芸部員とつきあうってこういうこと?
 おけまる。
 それならそうと、私にだって考えがあるのじゃ。


《我が友が レズかホモかと 問うてくる》


 授業開始。
 ああ、眠い。
 それにしても世界史は、あまりに眠い。
 私の中の別人格まで授業がわからないと眠ろうとする。コノハが眠るのは、もちろんかってだけど、なんで私まで眠くなるかな。
 しかも暑いし。
 早く夏休みになってしまえばいいのに。
 時間なんかすっ飛ばして。
 コノハって、そういうの得意なんじゃないの?
 いや、そういうための能力じゃないのはわかってるけど。
 どうしよう、夏休み。
 お若いお医者様にご出資を頼んで音大進学に邁進しちゃう? 援助お願いしちゃう?
 だったらちゃんと音楽の勉強しないとだけど、なんか、それもちがうんだよな。
 まあ、中学浪人した分、私には来年もあるし、今年はまったり様子見で。
 あ、着信。


《古池や レズかホモかと 水の音》


 カズキ君、それ、意味わらんし。
 コノハも書くの?
 ぶりっこはやめてよ。


《授業中 ねむくなります ごめんなさい》


 ぶりっこはやめてって言ったよね? わざとやってる? ねえ、わざと私を怒らせたいわけ?
 って、もう着信きた。返信、はや。


《夢ではない コノハの声も 期末の期日も》


 コノハが書いたって、わかってくれたんだね、さすが。
 あ、やばい、先生に気づかれた。


《ごめん、急いで真面目なのひとつ送って》

 
 このメールは、行為としては、完全アウトのタイミングだった。
 崖っぷちの悪あがき。
 彼、わかってくれたかな。
 むりだろうな。
 先生がこちらに来る。
 観念しますか。

「澤野井さん、授業中は携帯電話の取り出しは禁止ということ、知っていますね」
「はい」
「メールですか?」
「あ……はい」
「よくありませんね」
「すみません」
「放課後まで取り上げさせてもらいますよ」
 美琴がスマホを差し出すと、着信で震えた。
 瞬間的にピアニストの素早い指の動きでメールを開く。


《草の葉を おちるより飛ぶ 蛍なり》


「なんですか、これは」
 世界史の女教師は怪訝そうにまゆを寄せる。怒りに油を注いだか、と悟った美琴は、脳機能全開であわてて言い添えた。
「文芸です。つまり、葉から落ちそうになった小さな蛍……でも、蛍は落ちずに、飛び立つんです。そう、落ちそうになりながら、ふわっと。先生、この意味はないがしろにはできないのではないでしょうか? むしろ素敵な一瞬ではないでしょうか? 私たち一人一人が、本当は飛び立つべき存在なのではないでしょうか?」
 とっさすぎる美琴の雄弁に、教師はシニカルな笑みを浮かべた。
「あなた、今度は俳句が趣味になったの? ピアノはやめて?」
 生徒たちがクスクスと笑う。
「いえ、ピアノはやめていないないです、が、文芸も素晴らしいと思います……」
「文芸はいいけど、今はその授業じゃないわよね?」
「はい、すみません」
「誰の影響?」
「いえ、とくに」
 と答えながら美琴は顔が赤くなった。
「文芸をたしなむ交際は尊重しますが、授業中はダメ。これは預かります。放課後、私のところまで。いいわね?」
「はい」

 ていうか、このあとに来るカズキ君からのメール、教師権限で見たりしないよね? 勝手に読んだら訴えるから。弁護士に依頼して損害請求して……

 って、私、かなり怒ってるのに、ていうか、めっちゃむかついているのに、でも、なんでムガル帝国は、こんなに強力な睡魔が、いっぱいなのだろう。睡魔の大軍、私の最大の怒りをもってしても、むりです、だめです、もちこたえられません、ふぁあ……


 そして10分後に、一人、廊下に立たされていた。
 怒られてすぐに寝ていたら、そりゃあしかたないわ。


 夏廊下 立たされて跳ぶ 心かな


 少し字余り。
 でも、君に送れない、ごめん。


 空が、青いね。


 そういえば、何年か前も、一人で夏の空を見ていた。
 その時は「空は、青い」と思ったものだ。

 いまは「ね」がつく。
 ひらがなひとつぶんの小さなちがい。
 ただ、それだけのこと。

 それだけのことなのに、なぜ私は、こんなに煮えたぎるほどの違いを、全身で感じてしまうのだろう……
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