第28話 父との約束
文字数 1,093文字
懸念したとおりの展開になってしまったということか、樋口は腰に手をあて、やれやれといった表情を浮かべている。
「樋口先生」
監督の武藤が一歩前にでていった。
「無理な練習は絶対にさせません。彼にやってもらうのは代打です。打つことだけに専念してもらいます」
「局面を変える確実な一打を期待するということでしょう。
カイトくん、それはそれで責任重大よ」
樋口がカイトに視線を向けた。覚悟はできているのかと訊いているようだ。
「Sure.」
カイトは短くこたえる。
「シュアーってなんだ?」
遊川が眉根を寄せて小野弟に訊いた。
「うん」
「うん、じゃわかんねえよ」
「もちろん覚悟はできている。心配するな。必ず打ってやる……そういったのさ。なあ」
小野兄が無口な弟に代わってこたえた。
「そんなに長くしゃべっていたようにはみえないけど……」
「exactly. そのとおりさ」
「ほらみろ」
カイトの同意を得て小野兄は得意気だ。
「カイトくん、ちょっときて」
樋口はカイトを手招きすると、提げていたハンドバックから名刺を取りだして渡した。
渡された名刺には『藪下鍼灸院』と刷られてある。
「体に異常を感じたらすぐここにいって」
藪という字が読みにくいのだろう。カイトが名刺の文字をにらんでいる。
「ヤブシタシンキュウイン。鍼と灸の専門医よ。わたしの父のかかりつけ医だった。名前はヤブでも腕は確かだから安心して」
「樋口先生のお父さんは横浜市長なんだ」
武藤が補足する。
だからか……とカイトは合点した。横浜市長の娘、つまり生まれついてのお嬢様だから高級車を乗り回すこともでき、各方面にも顔がきくというわけだ。
「わかったわね。understand?」
「Yes, I see」
カイトから「了解」の返事を得ると樋口はグラウンドをあとにした。
その後ろ姿を見送っていると、加奈が近づいてきて握手を求めた。
「野球部へようこそ。残酷な女のコだけどよろしく」
「Sorry. 傷つけるつもりはなかった」
カイトは両手を広げると加奈を引き寄せてハグした。
「えっ!?」
加奈の顔が赤くなり、周囲がいっせいにざわめく。
「さっすがアメリカ人」
神楽坂がひゅー、と口笛を吹き、遊川が加奈以上に顔を真っ赤にして武藤にいう。
「お父さん、こんなの許していいんですかっ!?」
「おまえがお父さんいうな!」
武藤が遊川に向かってバットを振りあげる。
和気あいあいとした雰囲気につつまれて、カイトは遠く西の空を仰いだ。
図らずも父との約束を破ってしまった。
(父さん、ごめん)
カイトはそっと胸の内で、シアトルの父に向かって謝るのであった。
第29話につづく