五章 3
文字数 2,456文字
*
滅びの日以前の幻影を見たあと、シリウスは真夜中も休まず走りとおした。やがて夜が明け、塩の砂漠に照りつける日差しが戻ってくる。
(やはり、一昼夜かかるか。ウラボロスにつくのは日没前)
胸さわぎがする。しきりに体内の時間軸がひらきそうになる。悪い未来を知らせているのだ。
だが、シリウスは時間軸をのぞくことなく走り続けた。時間軸を見れば、未来に起こることはわかる。しかし、もしそれが最悪の未来なら……。
(どうか、まにあってくれ)
こんなときこそ翼が欲しい。願ってもしかたないことではあるが。
そんなことを考えていたときだ。頭上に羽音が近づいてきた。
《シリウス!》
獣の声が、シリウスを呼ぶ。
見あげると、空から一頭の竜犬が舞いおりてきた。黒鱗で翼のある竜犬。ハルベルトのいとこ、ヴィルゼフォンだ。
《私の背中に乗れ。シリウス》
竜犬は気位が高い。半神のシリウスにだって、こちらが頼まなければ、みずから乗せてくれることなどない。
「いいのか? ヴィルゼフォン」
《君だけは特別だ》
「ありがとう」
シリウスはヴィルゼフォンの背に乗った。ぐんぐん高度があがり、青空のなかを矢のように飛翔する。
「ヴィル。ウラボロスへつれていってくれ」
《わかってる。君の声が聞こえた》
「それで来てくれたのか」
シリウスは心から感謝した。
《君がワンダを救ってくれたからだ。あの女は近づくものを狂わせると教えてくれなければ、我々は何度もあの女を襲撃し、仲間どうしで殺しあっていただろう。シリウス、君のおかげだ。ありがとう》
「礼を言われるほどのことはできなかった。何も」
ハルベルトやカイザーを切りふせた感触は、まだこの手に残っている。あのときの無念は忘れられない。
《いいや。したよ。ワンダが子どもを生んだ。六頭だ。そのうち二頭は金鱗だ。おまけに翼もある。君によろしくと、ワンダが言っていたよ》
「無事に生まれたのか。よかった」
六頭は竜犬にしてはかなり多い。助かった命を思うと、シリウスの心も少しは救われる。
《どちらにせよ、我々の種族はもうじき滅びる。個体数が少なすぎるからね。しかし、最後の一頭になるまで、我々は竜犬に生まれてきたことを誇りに思う。君は我々の誇りある死を守ってくれた》
ヴィルゼフォンは金色の目に笑みをたたえた。
《まあ、かたい話はよそう。せっかく空にいるのだから。ほら、風が気持ちいい》
たしかに風は心地よい。透きとおる空の青に、シリウスの身も心もとけこんでいく。かつて竜犬をかって大空を支配した父たちも、こんな気持ちだったのだろうか。
だが、鐘の音が届いた。
街が近い。
《シリウス。悪いが、私はここまでだ。元気で》
「ああ。君も」
ヴィルゼフォンはシリウスをおろし、去っていった。
青貝の森の端だ。
さっきの鐘の音が気にかかる。
それがウラボロスに惨劇をもたらした血の婚礼の始まりであることを、シリウスはまだ知らない。
*
「宮廷で発言権を持つ重臣はほぼ殺害。難を逃れた者も家宅を包囲し忠誠を誓わせた。従わぬ者は殺害。軍部には、まっこうから反撃してくるやつもいるだろう。が、こっちがヴァージニア姫を人質にしているかぎり、手出しできない。なんなら、あのチビ姫をおれの第二王妃にしてもいい。ゆいいつ残った王家の血筋だからな。それでも文句言ってくるやつは——」
「わたしがたらしこめばいいんでしょ?」
グローリアがリアックの言葉のあとをとると、彼は不機嫌になった。
王の寝室。広間は血の匂いがなくなるまで清掃しなければならないので、ここへ移ってきた。
「おまえが王宮で何をしようと勝手だがな。おれを裏切ってみろ。その美しい顔に熱湯をあびせてやるからな」
リアックはクリュメルを殺してから気が立っている。
今さら自分のしたことに、おじけづいたのだろうか。あるいは罪の意識。
リアックは爪をかんだ。
「問題はシリウスが帰ってきたときだな。あいつは剣をひとふりするだけで、千人を失神させてしまう。おまけに鉄の鎧をまとったような頑丈な体」
「彼に弱点はないの?」
「剣で切れない。火で焼けない。水中でも生き続ける。弱点なんて——」
言いかけていたリアックが、大声を出した。
「ある! もしも、あれがただのおとぎ話じゃないなら、効くかもしれない」
「何?」
「ウラボロスに伝わる話だ。あいつの親父が人間の小娘に芥子汁を飲まされて、眠りこんだって……そうだ! 神酒に芥子汁をしこんだって話だな」
「神酒。神にささげる酒ね」
「じっさいに神々が飲んだやつだ。しかし、最後に造られたのが三百年前。今でも残ってるかどうか……」
「急いで探させて。シリウスだって眠りこんでしまえば、魔法は使えない。どんなに彼の体が頑丈でも、ノコギリを何本も使って切断すれば、バラバラにできるはずよ。もしそれでも生きていたとしても、全身バラバラなら動けない。一つずつ箱に入れて、地中深く埋めてしまえばいい」
真剣に考えるグローリアを、リアックが凝視してくる。
「おまえ、シリウスのことになると、ムキになるんだな」
ドキリとした。
——お前は私の腕のなかで、私はおまえの腕のなかで……グローリア。
青空に抱かれたあの場所で。星にもっとも近い岩山で……。
あなたを穢したいなんて、ほんとは嘘。あなたがわたしを毛嫌いするから、すねてみただけ。わたしはただ、神のようなあなたに、わたしのことも守ってほしかった。
(もう遅いわ。シリウスはわたしをゆるさない。こうするよりないのよ。だけど……)
この世にほんとに神があるなら、わたしを救って。
わたしは崖っぷちで踊っている。わたしにも止められない。手足が勝手に踊り続ける。爪ははがれ、力つき、血を流しながら。
グローリアは胸の内の迷いを打ち消すために、わざと強い口調で告げた。
「シリウスは今度こそ、あなたもわたしも殺すわ。先手を打つのよ。わたしに考えがある。それと、最後にもう一人、つれてきてほしいの」
「仕上げはどの男だ?」
グローリアは微笑した。
「わたしの花嫁よ」
滅びの日以前の幻影を見たあと、シリウスは真夜中も休まず走りとおした。やがて夜が明け、塩の砂漠に照りつける日差しが戻ってくる。
(やはり、一昼夜かかるか。ウラボロスにつくのは日没前)
胸さわぎがする。しきりに体内の時間軸がひらきそうになる。悪い未来を知らせているのだ。
だが、シリウスは時間軸をのぞくことなく走り続けた。時間軸を見れば、未来に起こることはわかる。しかし、もしそれが最悪の未来なら……。
(どうか、まにあってくれ)
こんなときこそ翼が欲しい。願ってもしかたないことではあるが。
そんなことを考えていたときだ。頭上に羽音が近づいてきた。
《シリウス!》
獣の声が、シリウスを呼ぶ。
見あげると、空から一頭の竜犬が舞いおりてきた。黒鱗で翼のある竜犬。ハルベルトのいとこ、ヴィルゼフォンだ。
《私の背中に乗れ。シリウス》
竜犬は気位が高い。半神のシリウスにだって、こちらが頼まなければ、みずから乗せてくれることなどない。
「いいのか? ヴィルゼフォン」
《君だけは特別だ》
「ありがとう」
シリウスはヴィルゼフォンの背に乗った。ぐんぐん高度があがり、青空のなかを矢のように飛翔する。
「ヴィル。ウラボロスへつれていってくれ」
《わかってる。君の声が聞こえた》
「それで来てくれたのか」
シリウスは心から感謝した。
《君がワンダを救ってくれたからだ。あの女は近づくものを狂わせると教えてくれなければ、我々は何度もあの女を襲撃し、仲間どうしで殺しあっていただろう。シリウス、君のおかげだ。ありがとう》
「礼を言われるほどのことはできなかった。何も」
ハルベルトやカイザーを切りふせた感触は、まだこの手に残っている。あのときの無念は忘れられない。
《いいや。したよ。ワンダが子どもを生んだ。六頭だ。そのうち二頭は金鱗だ。おまけに翼もある。君によろしくと、ワンダが言っていたよ》
「無事に生まれたのか。よかった」
六頭は竜犬にしてはかなり多い。助かった命を思うと、シリウスの心も少しは救われる。
《どちらにせよ、我々の種族はもうじき滅びる。個体数が少なすぎるからね。しかし、最後の一頭になるまで、我々は竜犬に生まれてきたことを誇りに思う。君は我々の誇りある死を守ってくれた》
ヴィルゼフォンは金色の目に笑みをたたえた。
《まあ、かたい話はよそう。せっかく空にいるのだから。ほら、風が気持ちいい》
たしかに風は心地よい。透きとおる空の青に、シリウスの身も心もとけこんでいく。かつて竜犬をかって大空を支配した父たちも、こんな気持ちだったのだろうか。
だが、鐘の音が届いた。
街が近い。
《シリウス。悪いが、私はここまでだ。元気で》
「ああ。君も」
ヴィルゼフォンはシリウスをおろし、去っていった。
青貝の森の端だ。
さっきの鐘の音が気にかかる。
それがウラボロスに惨劇をもたらした血の婚礼の始まりであることを、シリウスはまだ知らない。
*
「宮廷で発言権を持つ重臣はほぼ殺害。難を逃れた者も家宅を包囲し忠誠を誓わせた。従わぬ者は殺害。軍部には、まっこうから反撃してくるやつもいるだろう。が、こっちがヴァージニア姫を人質にしているかぎり、手出しできない。なんなら、あのチビ姫をおれの第二王妃にしてもいい。ゆいいつ残った王家の血筋だからな。それでも文句言ってくるやつは——」
「わたしがたらしこめばいいんでしょ?」
グローリアがリアックの言葉のあとをとると、彼は不機嫌になった。
王の寝室。広間は血の匂いがなくなるまで清掃しなければならないので、ここへ移ってきた。
「おまえが王宮で何をしようと勝手だがな。おれを裏切ってみろ。その美しい顔に熱湯をあびせてやるからな」
リアックはクリュメルを殺してから気が立っている。
今さら自分のしたことに、おじけづいたのだろうか。あるいは罪の意識。
リアックは爪をかんだ。
「問題はシリウスが帰ってきたときだな。あいつは剣をひとふりするだけで、千人を失神させてしまう。おまけに鉄の鎧をまとったような頑丈な体」
「彼に弱点はないの?」
「剣で切れない。火で焼けない。水中でも生き続ける。弱点なんて——」
言いかけていたリアックが、大声を出した。
「ある! もしも、あれがただのおとぎ話じゃないなら、効くかもしれない」
「何?」
「ウラボロスに伝わる話だ。あいつの親父が人間の小娘に芥子汁を飲まされて、眠りこんだって……そうだ! 神酒に芥子汁をしこんだって話だな」
「神酒。神にささげる酒ね」
「じっさいに神々が飲んだやつだ。しかし、最後に造られたのが三百年前。今でも残ってるかどうか……」
「急いで探させて。シリウスだって眠りこんでしまえば、魔法は使えない。どんなに彼の体が頑丈でも、ノコギリを何本も使って切断すれば、バラバラにできるはずよ。もしそれでも生きていたとしても、全身バラバラなら動けない。一つずつ箱に入れて、地中深く埋めてしまえばいい」
真剣に考えるグローリアを、リアックが凝視してくる。
「おまえ、シリウスのことになると、ムキになるんだな」
ドキリとした。
——お前は私の腕のなかで、私はおまえの腕のなかで……グローリア。
青空に抱かれたあの場所で。星にもっとも近い岩山で……。
あなたを穢したいなんて、ほんとは嘘。あなたがわたしを毛嫌いするから、すねてみただけ。わたしはただ、神のようなあなたに、わたしのことも守ってほしかった。
(もう遅いわ。シリウスはわたしをゆるさない。こうするよりないのよ。だけど……)
この世にほんとに神があるなら、わたしを救って。
わたしは崖っぷちで踊っている。わたしにも止められない。手足が勝手に踊り続ける。爪ははがれ、力つき、血を流しながら。
グローリアは胸の内の迷いを打ち消すために、わざと強い口調で告げた。
「シリウスは今度こそ、あなたもわたしも殺すわ。先手を打つのよ。わたしに考えがある。それと、最後にもう一人、つれてきてほしいの」
「仕上げはどの男だ?」
グローリアは微笑した。
「わたしの花嫁よ」