四章 6

文字数 1,445文字



 あのあとすぐだった。船遊びがあったのは。
 きっと、グローリアが死ぬ前に、せめて楽しい思い出を残してやろうという父たちの計らいだったのだろう。

 船上で、グローリアははしゃいでいた。いつもなら庭を散歩しただけで立ちくらみがしたのに、その日は甲板をかけまわっても、冷たい水に手を伸ばして飛沫をかぶっても平気。

 通りすぎていく両岸の街の人々が手をふっている。
 グローリアのために用意された遊び。同じ年ごろの子どもたち。かくれんぼや鬼ごっこ。楽しい音楽。道化師の手妻。

「今日は顔色がよいな。グローリア」
「はい。父上」

 何隻もつらねた船に大勢の人間がいた。
 たぶん、グローリアは自分でも知らぬまに、あたりにただよう人々の熱気を吸っていたのだ。それまでの五年間も本能的にそうしていたから、どうにか生きてこられた。
 しかし、大気に溶けるほのかな熱気など、ほんの微弱だ。グローリアを生かすに充分なエネルギーではない。だから、死にかけている。

「父上。グローリアをひとりじめしないでください」
「よいではないか。ギリアン。そなたは手厳しいな」
「父上も兄上もいっしょに遊ぼうよ」

 父も兄も優しかった。一日は、あっというまだ。

 王宮のある都から南へ川をくだり、港町についた。港には多くの船がならび、都では見ないものもたくさんあった。荷をおろし運ぶ人夫たち。商談をかわす商人。にぎやかな酒場。そこで舞う踊り子。見るものすべてがめずらしい。

 はしゃいでいたグローリアは、領内の小宮についたとたん、めまいを起こした。

「やはりムリをしていたか。今夜はもう休みなさい。いいね? グローリア」

 曲芸団が呼ばれていると言われ楽しみにしていたのに、早々に寝かしつけられた。グローリアを興奮させてはいけないからと、父も兄も部屋を出ていった。侍女や衛兵は次の間にさがる。

 グローリアは眠ろうとしたが、寝られなかった。解決のない自分の死の問題や、昼間の楽しかった記憶。いろいろなことが頭に去来した。

 そのとき、グローリアの部屋の窓を誰かがたたいた。

「だぁれ?」
「オバケではありませんよ。王子さま」

 優しそうな声だった。
 グローリアは退屈していたから窓をあけた。立っていたのは、いかにも騎士らしい男。父の従者だろうと思った。

「王子さま。眠れないのですね。これから、昼間よりもっと楽しいものをごらんにいれましょう」
「ほんと?」

 グローリアは人を疑わない五つの子どもだった。世の中の悪意にふれたことなど、ただの一度たりとなかったのだ。見るからに怪しい申し出だったのに、ころりとだまされて、ついていった。

 それはとりかえしのつかない一夜になった。

(あのときの不注意が、今のわたしを汚辱まみれにしている。わたしには無垢な死か、穢れた生か、どちらか一つしかなかった)

 選択をあやまった。

 わたしは生きたかった。でもそれは、父から迫害され、兄に侮辱される、今のような生きかたじゃない。
 できれば、あのときのきれいなままの自分で死にたい。もう一度やりなおせるなら。あのときに翔んで帰れるなら。

(シリウス……)

 ふとその人の顔が浮かぶ。
 だが、少年の声が聞こえて我に返る。いつのまにか夜が明けていた。

「シリウス……たすけ……ぼく、変なんだ……」

 グローリアは冷酷にそれをながめた。
「いつも都合よく助けが来るなんて思っちゃいけないわ。坊や」

 わたしだって、あんなに泣き叫んだ。父上や兄上を呼び続けた。でも……。

「さあ、仕度をして。わたしとあなたの結婚式のね」
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