序章1

文字数 1,734文字




 これは、めぐる輪廻(りんね)の物語。
 血と呪いと永久なる時の物語。
 死をこえる、愛の物語。


 *


 数奇な人生を送る者は少なくない。けれど、彼ほどに深く神に憎まれ、かつ愛された者はほかにいない。

 彼の生涯の最初の試練は、一見、よくある貧困家庭の苦渋だった。それはせいぜい両親に起こった、ちょっとしたつまずき。

 彼が五つのとき、母が死んだ。それまで貧しいなりに、勤勉な父と優しい母の愛を受け、幸福だった家庭が一変した。

 父は絶望し、とたんに子どもをかえりみなくなった。朝から晩まで浴びるように酒を飲み、あまつさえ暴力をふるう。ここで初めて、父の口から、彼の身にふりかかる数奇な運命の一端を知らされる。

「きさまのせいだ! きさまのその悪魔の目が悪いんだ!」

 悪魔——

 たしかに、彼の瞳は変わっている。夜空に輝くシリウスのように青く光る。昼には陽光を反射して、キラキラと幾千ものきらめきの粉の乱舞する万華鏡のよう。夜には燃えあがる(りん)のように闇を切り裂き輝きわたる。

 でも、これは父から受けついだものだ。なのに、なぜだか父は、彼のこの誰のものとも違う、ゆいいつ父とだけ同じ瞳が母を殺したのだと信じているようだった。

(そんなこと言われたって、ぼくが悪いなら、父さんだって悪いんじゃないの?)

 幼い彼は、まだ自分の血にひそむ運命を知らなかった。父の暴力の意味を知らず、理不尽な苦しみに耐えなければならなかった。

 血の呪いとさえ言えるそのわけを、彼が知るのは、そのさき三十年後のこと。
 このときはただ、わけもわからず、毎日、父からなぐられた。

 彼は世の不条理をかみしめながら成長した。父が育児を放棄したので、長兄の彼が日銭をかせいで幼い弟妹を養わなければならなかった。
 盗みをおぼえるのは、あっというま。墜落の道をころげおちるのは速かった。彼はとても綺麗な子どもだったので、容色を売れば、しばらくは自分と弟妹の口をすすげることを、まもなく知った。

 それでも不幸の波状攻撃を一人でふせぐには、彼自身あまりに幼かった。

 彼のすぐ下の弟は、兄の見よう見まねで市場で盗みを働き、逃走ちゅうに馬車にはねられ、死んだ。

 その下の弟は父の借金のかたに、どこか遠い外国へ売られていった。

 一番下の妹は、ある寒い冬の日に、飢えて凍えて死んでしまった。
 赤ん坊のときから、彼が世話して慈しみ育てた妹だった。母がいなくなったあと、乳をほしがる妹を抱いて、一軒一軒、近所をたずね、お乳の出る女を探してまわった。お金があれば、牛や山羊の乳で代用することもあった。彼が自分の身を堕としてかせいだ金で買ってきて。

 腕のなかで冷たくなった妹を抱いて、彼は決意した。
 泥酔して眠りこんだ父の背に、全身の重みをかけて、さびたナイフをつきさした。

 死ぬべきは父だったのだ。妹ではなく。もっと早くにこうしておけばよかった。妹が死んでしまう前に。
 できなかったのは、自分が弱かったからだ。心のどこかで、父がまた

に戻ってくれると願っていたから。それとも、ただ親殺しの罪を犯す勇気がなかったから?

 でも、この瞬間から、おれは変わる。おれは虐げられる弱者の生きかたをすてる。どんなことをしても生きる。たとえ悪魔の足にすがりついてでも。

 この決心をしたのが、わずか七歳。
 一人になった彼は、理不尽で暴力的な世界へとびだしていった。

 少年が一人で生きのびるには、世界は苛酷(かこく)だった。
 彼はあいかわらず生きるために汚いことをしたし、人も殺した。

 彼の放浪の少年期だけでも、何冊もの物語になるほど多くの悲しみや苦しみを経験した。

 狂人の浮浪者と物乞いをして暮らしたこともあった。

 彼同様に幼いころ虐待されたせいで、年上の男を殺してまわるようになった殺人犯と同居したこともあった。

 と思えば、売りだしちゅうの劇作家の恋人だったことも。旅芸人の一座で子役をして、旅に暮らしたことも。

 前述のように、彼はたいへん容姿に恵まれた子どもだったので、愛してくれる人はたくさんいた。
 飢えたノラ猫をひろいあげるように救いの手をさしのばし、彼のかわいた心を慈雨の愛でいやそうとした人たち。

 だが、そのたびに彼は絶望につきおとされることになるのだ。ある運命から。
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