十章 6

文字数 2,280文字


「待て! ハイドラ。おまえのしようとしていることは徒労だ!」

 ハイドラは体が変形するほどの苦痛のなかで、なおかつ強い意思をこめて、ワレスを睨視(げいし)した。

「ジャマ……するな! シリウス」

 また一つ封珠を手にとる。
 燃えるような真紅の……あれは、カリウルのサラマンダーの力。

「聞け! おまえは魔王の肉体と、レリスの魂を入れかえようとした。だが、それではダメなんだ。どっちをどっちに入れても、もとは同じ——同じ一つの魂だ!」

 ハイドラの瞳が、一瞬、虚空を見る。
 金切声をあげたのは、レリシアだ。

「やめてえェッ!」

 レリスも恐怖に身をふるわせ、立ちすくんでいる。
 哀れだが、ここでやめるわけにはいかない。これを明らかにしなければ、呪いは解けない。

「魔王とグローリアは一人。

!」

 レリスも、レリシアも、ハイドラも凍りついた。
 ワレスの声だけが真実をあばく。

「グローリアは半神というには、あまりにも

力しか持たなかった。だが、それは生まれつきではなかった。彼女はおれたち十二騎士の誰よりも、強い力を持って生まれた。ほとんどフェニックス神そのものの力を。だが、濃すぎる神の力は人を焼く。彼女はその強大な力で見た。母の胎内にいるうちに、生まれ落ちた自身の姿を。神の血に焼かれた、あの姿を。それで……切り離したんだ。生まれる前に、自分の一部を。それが、グローリアだ」

 違う、違うと、小さな声で、レリスとレリシアが反論する。

「あんなの、わたしじゃない。あんな醜い化け物……わたしなんかじゃない」
「そう。あれはすてたもの。いらないものを切って、すてただけ。わたしのほうが、ほんとのわたしよ。これが、わたしのあるべき姿」

 レリスとレリシアの精神が完全に同調し、魂がひきあった。二人は一体となった。七つのときに切りわけられた身体が、本来の姿に戻る。

 それはレリスであり、レリシアでもあった。レリシアが少し大人になったようでもあり、美しい青年のレリスが少年に戻ったようでもある。瞳の色は、ワレスの愛したオーロラだ。ときおり緑玉の色を帯びるとき、生まれ変わる前の少女をほうふつとさせた。

「こっちが、わたしだよ。ワレス。たしかに、わたしはアレをすてたけど。切り離したあとの手足が命を持ち続けるなんて思わないだろう?」

 レリスはそう言うが、魔王の存在の強大さから見て、むしろ、切り離されたのは、グローリアのほうだ。生まれ持った神の血のほとんどは、魔王が受け持っていたはず。

「自分の存在をいくつにも切りわけ、なおかつ生きていられる。なんて、とてつもなく強い神の血だ。だが、いくつに切っても魂は一つ。残された一方は、おまえを通して、おまえの人生を生きた。それでも、生まれる前にすてられた孤独は、どうしてもいやすことができない。片方の目で人の生を、もう一つの目で深淵の牢獄を見続けた。それによって、おまえの魂はうるおうことない渇望に荒廃していった。知っていたからだ。ほんとの自分は、ずっと闇の底にうちすてられていることを」

「違う! ワレス。おまえだって……あの姿のわたしを見てはくれなかった! 今度こそ消してしまって。あれを殺して。今のおまえなら、できるだろう? 神の力を得た、今のおまえなら」

 そんなことをすれば、レリス、おまえも死ぬぞ。おまえの心臓は、本体である魔王がにぎっている。

「それが……おまえの真の望みなのか?」

 呪われた自身の生そのものを終わらせることが?

 レリスはゆっくり、うなずいた。瞳に迷いはない。

 レリスだって知っている。ほんとはどちらが自分の命を持ち、それを絶てば、分身の自分がどうなるのか。本体が絶たれれば、魂も消滅するということを。

 悲しみのなかで、ワレスはレリスを見た。

 今度こそ手に入れたと思ったのに、おまえはまた行ってしまうのか。永遠に、手の届かないところへ。

 ワレスが立ちつくしていると、叫び声がした。ハイドラだ。
 ハイドラは残る封珠を次々に飲み、その姿はねじれ続ける。長く、長く。どこまでも長く伸び、いつしか白い大蛇と化した。

「ハイドラ——」

 白蛇は時空をこえ、三千世界へ翔んでいく。
 ワレスはレリスを抱きあげ、ハイドラを追う。
 ハイドラはまっすぐに、あの時の牢獄をめざしていた。

『やめろ! ハイドラ』
『おまえにできぬのなら、私がやる! 一族を裏切るほどに愛した女だ。最期は、私の手で——』
『ハイドラーッ!』

 ハイドラは白い閃光のような巨体で、封印の扉をあっけなく打ちやぶった。ワレスが止めるまもなく、その内に封じられたものの喉元に喰らいつく。

 この世でもっとも醜く、忌まわしい女神が、断末魔の叫びをほとばしらせる。

『やめろ……やめろォォォッ!』

 ワレスの見ている前で、彼女は喉笛をかみきられた。全身を白蛇にしめつけられ、バラバラにひきちぎられていく。

 白蛇は彼女をそうしながら、みずからも人の身にあまる力に焼かれ、四散する。ハイドラは輪廻の流れに戻っていった。あとには、女神の残骸が残るばかり。

 腕のなかで、レリスが微笑みながら目を閉じた。心臓は止まっていた。抱きしめようとすると、その姿は女神の残骸に吸われるように消えた。

(いやだ。いやだ。こんなのは、いやだ! レリス。愛するのは、おまえだけ……)

 どんな姿でもいい。愛していた。醜い魔王のままでいい。還ってきてくれ。

「レリス。レリス——」

 星がふるえるほどの嘆きの声を、ワレスが発したとき、

は聞こえた。


 ——咲きたかろうに。千の枝の万の葉陰に。


 あの、空の王の歌が……。
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