九章 5
文字数 1,814文字
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深く、深く、もぐる意識。母の胎内にいたときより、もっと深く。
闇のなかに男が見える。ただし、人ではない。それは、ひとめ見ただけで誰にでもわかる。
彼の全身は銀色に輝いていた。白銀の肌。長く流れる銀の髪。顔立ちは少し冷たく、シリウスによく似ていたが、少年にも見えた。翼があるわけでも、角があるわけでもないが、まぎれもなく、彼は神だ。
「ホーリームーン。血の儀式の時間にございます。どうぞ、広間へおいでくださいませ」
大神官の声が扉の外からする。
「今、行く」
答えると、足音が遠ざかる。ホーリームーンはふたたび、一族の影と対話した。
「そういうわけだ。私は行かなければ」
「待て。クリュスプトゥル。君がアヴィリアメーナの眠るこの地にとどまりたい気持ちはわかる。だが、これ以上、遠くなっては、我々も君との交信がとれない。思いなおしてくれ。彼女の魂は再生の時を迎えているだけだ。いずれ君の前に生まれ変わるだろう。だが、それはここではない。我々一族のなかにだ」
「私のことはあきらめてくれ。ダリアナイガスール。私は見た。彼女はあのとき、断末魔の空の王の触手に胸をつらぬかれ、魂が千々にくだけちった。彼女の魂は死んだ。もはや二度とよみがえらない」
「クリュスプトゥル……」
「私はここで、アヴィリアメーナの魂とともに、永遠の眠りにつく」
「君はわが一族のなかでも屈指の戦士だ。長老のあとを継ぎ、一族を指導する立場にある。少なくとも子はなすべきだ。一族の数をこれ以上、へらしてはならない」
「知っているはずだ。再生のたび、私とアヴィリアは片翼となった。私には彼女以外の女との愛の行為は考えられない」
「クリュスプトゥル。どうか考えなおしてくれ」
「私はもう行かなければならない。大神官が待ちくたびれているだろう」
「クリュスプトゥル! 我々は君まで失いたくないんだ!」
ホーリームーンは友の声をふりきって翔んだ。現れたのは、神官たちのいならぶ神殿の広間だ。
「遅くなった」
すでに血の儀式の仕度は完了していた。巫女たちが一列になって頭をさげるなか、一人だけ前に出て、両ひざをついた娘がいる。
その娘を見たとき、ホーリームーンは心が乱れるのを感じた。美しいというよりは、チャーミングな顔立ち。初めて見るはずだが……。
「名は?」
「アリアと申します」
「巫女になる決心はついているのだな?」
「はい」
「よかろう。生涯を神殿に捧げるなら、私からそなたに無病と長寿を賜ろう」
ホーリームーンは一瞬、迷った。
血の儀式は危険をともなう。成功すれば、人はさきほど彼の言った無病と長寿を得る。が、失敗すれば、死ぬ。なにしろ、神の血は人を焼くのだから。
しかし、だからと言って、これまで一度もためらったことはなかった。これは人間のほうから言いだしてきた慣習だ。命を賭けてもいいから、神に近づきたいという人の願いだ。
なぜ、この娘にかぎって、迷ったのだろう?
自分の気持ちがわからぬまま、ホーリームーンは少女の胸を銀の短剣でかるくなぞった。赤い血のすじが浮いてくる傷口に、今度は自分の指につけた傷から、一滴の血をしぼる。人の血と神の血がとけあい、少女は悶え苦しんだ。床をころがりまわり、絶叫する。
彼女は果たして死ぬのだろうか? それとも、うまく神の血に適合して、生きのびるのだろうか?
いつになくさわぐ胸。ホーリームーンはそのときを待った。やがて、娘は動かなくなった。
「死んだのか?」
ああ、私は落胆している。
なぜだろう? 私はアヴィリア以外の女には心を動かされないはずなのに。
しかし、大神官の返答は、
「いいえ。気を失っただけにございます。この娘は神の血を受け入れました」
「それはよかった。清き娘アリアを今このときより、わがしもべと認める」
それが、ホーリームーンと、シリウスの母アリアの出会い。
「あの娘、すて子ですってね」
「商家の軒下にすてられていたって話よ。娼婦の子じゃないかって」
「おお、いやだ。そんな者がわが神さまにお仕えするなんて。聖域を穢すつもりなのかしら」
「それをまた、どういうわけか、わが神さまがお気に召して」
「ほんとに、なぜでしょう。たいして美人でもないのに」
まもなく、そんな陰口が巫女たちのあいだでささやかれるようになった。
(なぜ、私がアリアを気に入ったか? そんなこと、人間にわかるはずがない。私自身にもわからぬのだから)
しかし、どうにも気になるのだ。
深く、深く、もぐる意識。母の胎内にいたときより、もっと深く。
闇のなかに男が見える。ただし、人ではない。それは、ひとめ見ただけで誰にでもわかる。
彼の全身は銀色に輝いていた。白銀の肌。長く流れる銀の髪。顔立ちは少し冷たく、シリウスによく似ていたが、少年にも見えた。翼があるわけでも、角があるわけでもないが、まぎれもなく、彼は神だ。
「ホーリームーン。血の儀式の時間にございます。どうぞ、広間へおいでくださいませ」
大神官の声が扉の外からする。
「今、行く」
答えると、足音が遠ざかる。ホーリームーンはふたたび、一族の影と対話した。
「そういうわけだ。私は行かなければ」
「待て。クリュスプトゥル。君がアヴィリアメーナの眠るこの地にとどまりたい気持ちはわかる。だが、これ以上、遠くなっては、我々も君との交信がとれない。思いなおしてくれ。彼女の魂は再生の時を迎えているだけだ。いずれ君の前に生まれ変わるだろう。だが、それはここではない。我々一族のなかにだ」
「私のことはあきらめてくれ。ダリアナイガスール。私は見た。彼女はあのとき、断末魔の空の王の触手に胸をつらぬかれ、魂が千々にくだけちった。彼女の魂は死んだ。もはや二度とよみがえらない」
「クリュスプトゥル……」
「私はここで、アヴィリアメーナの魂とともに、永遠の眠りにつく」
「君はわが一族のなかでも屈指の戦士だ。長老のあとを継ぎ、一族を指導する立場にある。少なくとも子はなすべきだ。一族の数をこれ以上、へらしてはならない」
「知っているはずだ。再生のたび、私とアヴィリアは片翼となった。私には彼女以外の女との愛の行為は考えられない」
「クリュスプトゥル。どうか考えなおしてくれ」
「私はもう行かなければならない。大神官が待ちくたびれているだろう」
「クリュスプトゥル! 我々は君まで失いたくないんだ!」
ホーリームーンは友の声をふりきって翔んだ。現れたのは、神官たちのいならぶ神殿の広間だ。
「遅くなった」
すでに血の儀式の仕度は完了していた。巫女たちが一列になって頭をさげるなか、一人だけ前に出て、両ひざをついた娘がいる。
その娘を見たとき、ホーリームーンは心が乱れるのを感じた。美しいというよりは、チャーミングな顔立ち。初めて見るはずだが……。
「名は?」
「アリアと申します」
「巫女になる決心はついているのだな?」
「はい」
「よかろう。生涯を神殿に捧げるなら、私からそなたに無病と長寿を賜ろう」
ホーリームーンは一瞬、迷った。
血の儀式は危険をともなう。成功すれば、人はさきほど彼の言った無病と長寿を得る。が、失敗すれば、死ぬ。なにしろ、神の血は人を焼くのだから。
しかし、だからと言って、これまで一度もためらったことはなかった。これは人間のほうから言いだしてきた慣習だ。命を賭けてもいいから、神に近づきたいという人の願いだ。
なぜ、この娘にかぎって、迷ったのだろう?
自分の気持ちがわからぬまま、ホーリームーンは少女の胸を銀の短剣でかるくなぞった。赤い血のすじが浮いてくる傷口に、今度は自分の指につけた傷から、一滴の血をしぼる。人の血と神の血がとけあい、少女は悶え苦しんだ。床をころがりまわり、絶叫する。
彼女は果たして死ぬのだろうか? それとも、うまく神の血に適合して、生きのびるのだろうか?
いつになくさわぐ胸。ホーリームーンはそのときを待った。やがて、娘は動かなくなった。
「死んだのか?」
ああ、私は落胆している。
なぜだろう? 私はアヴィリア以外の女には心を動かされないはずなのに。
しかし、大神官の返答は、
「いいえ。気を失っただけにございます。この娘は神の血を受け入れました」
「それはよかった。清き娘アリアを今このときより、わがしもべと認める」
それが、ホーリームーンと、シリウスの母アリアの出会い。
「あの娘、すて子ですってね」
「商家の軒下にすてられていたって話よ。娼婦の子じゃないかって」
「おお、いやだ。そんな者がわが神さまにお仕えするなんて。聖域を穢すつもりなのかしら」
「それをまた、どういうわけか、わが神さまがお気に召して」
「ほんとに、なぜでしょう。たいして美人でもないのに」
まもなく、そんな陰口が巫女たちのあいだでささやかれるようになった。
(なぜ、私がアリアを気に入ったか? そんなこと、人間にわかるはずがない。私自身にもわからぬのだから)
しかし、どうにも気になるのだ。