三章 2

文字数 1,475文字


 ワレスが無言でいると、透きとおるような白い肌を、ウィルはサッと赤らめた。

「あなたのことは、もう追いません。ただ、つらいんです。兄といることが」

 ワレスは幌馬車を見たが、ウィルの兄ロゼッタが降りてくるようすはない。眠っているらしい。

「兄は公爵さまのお姫さまと結婚するはずだったんでしょう? 僕のために自分の幸せをすてて来てくれた。僕はそのことを一生、兄に対して申しわけなく思う。兄は兄で、僕がテラウェイさんと逃げたのは、あなたにふられて悲嘆に暮れてたとき、ほったらかしにしてた自分のせいだと思ってる。僕にはそれがまた心苦しい。このままいっしょにいると、僕たちはたがいを重荷に思うようになる。だから、つれていってください。ユイラまででいいんです。ユイラについたら、僕、働きぐちを見つけます。道中で使った路銀や船代も働いて返しますから」

 まったく、この兄弟はたがいを思いやるあまり、自分も相手も追いつめてしまうところが、そっくりだ。
 とはいえ、内気でおとなしいこの少年は、放置しておけばもっと呻吟(しんぎん)するだろう。

 ワレスは手を伸ばし、少年の体を鞍の前へひきあげた。

 二人でエスパンを通過し、港へむかった。
 一歩一歩がレリスから引き離されていく道であることはつらかった。が、愛する人がほかの誰かを愛するところを、目の前で見ているのは、もっとつらい。これは正しい選択だったはずだ。

 気ままな旅は、一人で放浪した少年時代をほうふつとさせた。あの悲哀に満ちた旅。

 だが、あのころは、たしかに、ワレスは自由だった。まだ自分の運命を知らず、何ものにも縛られず、毎日を必死に生きながら、心の奥底には希望を持ち続けていた。それは、ほんの小さな星のまたたきのごとき、かすかな希望ではあったが。

 あのころにくらべたら、今度の旅は快適だ。同じほどの悲哀を心に抱えつつも、かたわらにはウィルがいたから。

 二人になってからのウィルは、これまでの物憂い表情が嘘のようによく笑った。
 事実、ワレスが知っていたのは、犯され、傷つき、不幸の連続に耐え忍んでいたころのウィルだ。本来は明るく笑う少年だったのかもしれない。

「ワレスさん。見て! あんなに船が」
「そうはしゃぐな。また熱を出すぞ」
「だって、僕、海を見るの初めてなんです。海ってこんなに広いんだ。わあ、大きな帆船」

「あの帆船はグラノアだな。あっちのガレー船はセレニア。エスパンは十二公国の海の玄関だから、多くの国の船が集まる。ああ、ユイラの船もある。やっぱり、ユイラの船は優美だ」

「ユイラ。どんなところだろう。僕のひいおじいさんと、ひいおばあさんはユイラ人です。海を渡って、ダーレスへ来たっていうんだけど、出発の前はドキドキしたのかな?」
「それはそうだろう。遠い異国へ旅立つのだから」
「ユイラについたら、僕……」

 ウィルは何かを言いかけて、やめた。ワレスのほうへ伸ばしかけた手を、そっとおろす。

 ワレスも気づいてはいた。この旅のあいだに、ウィルの気持ちが、またワレスに傾いていることを。

 もともとウィルは、ワレスを嫌いになって別れたわけではない。でも、約束だから我慢しているのだ。ワレスの心が彼の上にないことは——レリスのもとに置き去りにされていることは、百も承知だから。

 ウィルはムリに本心を飲みこんだ目で微笑んだ。

「もうじき船に乗れるんですね。僕、嬉しくて、今夜は寝られそうにない」

 そう言ってたのに、ウィルは船に乗れなかった。まだ十五だったのに。

 港を見物し、ユイラへ行く船を探して、その夜は宿をとった。夢を見た。あの夢の続きを。
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