十章 4
文字数 2,562文字
ワレスは皇都の中心、皇宮へ急いだ。
日は沈んでいたが、真夜中というわけではない。なのに、皇宮には灯火が少なく、異様に静まりかえっている。敷地のなかには十二の主神を祀る神殿や、帝立学校などもあるものの、まるで無人のようだ。
しかし、ミラーアイズで見れば、宮殿のいたるところに、息を押し殺して身をかたくしている人々が見えた。兵士も侍女も下働きも、みんな、自分のベッドのなかでふるえている。
(この感じ。おぼえがある)
皇帝のとつぜんの乱心。凶行。
あのときと同じだ。グローリアの兄ギリアンが、魔王に取り憑かれたときと。
宮中の人々は、常軌を逸した皇帝もさることながら、暗黒で世界を覆いつくす魔神の瘴気を恐れている。
ワレスはさらに深く宮殿の奥を視線でさぐった。後宮の皇帝の寝室。
この黒い渦の中心。
瘴気を放つものとともにあって、サリウス帝はなかば正気を失っていた。
ワレスは個人的にサリウス帝を知っていた。少年時代、貴族の子弟にまじって第一校で学んでいたころ、彼は上級生だった。
当時はじかに話したことはない。彼はいつも一人でいる、孤独な皇子だった。同学年の従兄弟である皇太子は、太陽のように明るく朗らかで、つねに大勢にかこまれている人気者だったというのに。
サリウス帝が従兄弟をうらやみ、憎み、なおかつ強く憧憬をいだいていたことを、ワレスは知っていた。砦にいたころ、彼に命を狙われたことがあるからだ。
天馬の血は帝位に
天馬の眼を持つワレスを、彼は恐れた。エニティ皇太子を暗殺し、老帝を
(おれと同じ、深い孤独にさいなまれていた。おれがルーシサスを愛しながら憎んだように、サリウス帝はエニティ皇子を憎んだ。その闇につけこまれたのか)
意思のかたい
ワレスは風に化身し、彼の寝室へ忍びこんだ。周囲には今のところ、ハイドラやレリシアの姿はない。ただ、豪奢な寝台の
サリウス帝がレリスにしていることを見て、ワレスは、すっと血の気がひくのを感じた。とともに、胃の腑にどす黒い
「——レリス!」
レリスは四肢を寝台の支柱に縛られ、全身、血まみれになっている。ナイフで、めった刺しにされていた。まともな皮膚がどこにもない。右手は手首のあたりで、ほとんどちぎれかけ、美しいオーロラの双眸も損なわれていた。眼球がえぐりだされたあとの眼孔は、血のたまる黒い穴と化している。息があるのが不思議なほどだ。
「レリスッ!」
ワレスが叫び声をあげ、姿を現すと、サリウス帝は狂気の目をむけてきた。
「来たな。ペガサス。天馬の騎士よ。余を裁くか?」
「裁く? 笑わせるな」
予言だの、伝説だの、どうでもいい。ただ愛する人を傷つけられたから憤るのだ。
「なぜ、レリスをこんなめに」
「彼は死なねばならぬ。エニティの遺したものは、すべて無に帰するのだ」
不覚にも、このときまで、ワレスはレリスの血統を考慮していなかった。
「そうか。レリスは皇統の……」
当然だ。ワレスがシリウスの転生であるように、レリスはグローリアの転生。それなら、グローリアが統一した、この皇国のまんなかに生まれてくるのは、自明の理ではないか。
「皇太子は未婚で夭折したな。子があったとも聞かない。隠し子か」
「呪われし子だ。生きていてはいけなかった。実の兄と妹のあいだに生を得た者」
忌まわしい事実だが、納得できた。人一倍濃いフェニックスの血を、父母の両方から受け継いだからこそ、レリスは誕生できたのだ。グローリアと同じ体で、グローリアの器として。
「エニティめ。どこまで余につきまとう。やつを殺し、ようやく自由を得たと思った。だが、やつは冥土で笑っていたのだ。よりによって妹との子だと? やつが死ねば、私があれを妃に迎えることは必然。やつからすべてを奪ったと、思いあがる私を愚弄するために、妹にまで手をつけていたのか。何をしても、私はやつにはかなわぬのだと?」
いつしか、サリウス帝は号泣していた。泣きながら、ナイフをふりあげる。ワレスは空間を翔び、彼の手をつかんだ。
「離せ! 息かできぬ。エニティがこの世にあるかぎり、私は……。エニティに息子があったと知り、一度は始末させたはずなのに、今になって蘇る。何度、エニティの亡霊を見ればよいのだ? 私は……もう疲れた……」
やはり、同じだ、彼は。
愛する人が次々に死んでいく孤独な運命のなかで、幸福に生まれたルーシサスをうらやみ、ねたみ、そして殺してしまったころのワレスと。
ワレスはレリスを愛することで孤独を逃れたが、彼はまだ泥沼のなかで一人あがいている。
ワレスは彼の手をにぎる手に力をこめた。腕力も、もう人間のころとは違う。ほんの少し力を入れただけで、サリウス帝の手からナイフがこぼれた。カラになった手をそのままふりはらうと、皇帝は寝台からころげおちた。
ワレスはレリスをいましめる縄を素手で断ち、抱きおこした。
「レリス。かわいそうに。こんなに傷ついて……」
「……ワレ、ス?」
虫の息の下から、かすかなあえぎ声。
レリスの手が、ワレスを求めてさ迷う。
「信じて……おまえが、死ぬわけない……」
「すまなかった。おまえに、さみしい思いをさせて」
「見えない……ワレス。おまえの顔……」
「今、治してやる」
ワレスは時間軸を使い、レリスの時間をあやつった。レリスの身体だけ時間が逆戻りしていく。またたくまに傷はふさがった。二つの穴になっていたオーロラの瞳も、もとどおり、ひらいた。その瞳から血ではなく、澄んだ涙があふれだす。
「おまえだ。ワレス……おまえの青い瞳」
「レリス」
何度、思ったことだろう。二度とおまえを離さないと。そのたびに運命により引き離される。でも今度こそ、その定めを終わらせる。呪いのような長い転生も。
レリスを抱きあげ、ワレスは立ちあがる。皇帝は嘆願した。
「殺せ。天馬の騎士よ。余を殺せ」
「裁くのは、あなたの良心だ」