四章 3

文字数 2,767文字

 *


 グローリアがウラボロスに帰ったときには、夕刻近くになっていた。リアックが憤慨(ふんがい)しているに違いない。

「ここでいいわ。用があるときは呼ぶから」

 人目につかない宮殿の裏手におりて、バールゼフを去らせようとした。
 バールゼフは名残惜しげに、グローリアの匂いをかぎまわっている。グローリアを元気づけようとしているのはわかる。しかし、今日のようなときは、この獣の愛人がことさら、うとましい。

「いいから早く行って」

 すげなく命じると、バールゼフは悲しげに茜色の空に飛び去った。

 別にバールゼフが悪いわけじゃない。
 バールだって、竜犬の彼が人間のグローリアに惹かれることが、自然の法則に反していることぐらい知っている。知っていて、なぜ、そんなことになるのか、理解できないから苦しんでいるのだ。

(わたしのこの体。男の精気を吸って生きる、呪われた体。切り刻んでしまいたい)

 人影のない水浴び場。
 みがかれた大理石の床。柱にかこまれた階段の下に、清水が湧きだしている。

 グローリアはドレスをぬいで、水に入った。冷たい。この水の冷たさが、体の内の汚れも洗い流してくれたら、どんなによいだろう。

 グローリアが水につかっていると、柱のあいだから人がおりてきた。すそをひきずる豪華なマント。西日にさんぜんと王冠が輝いている。

(ウラボロスの王ね)

 人影がないはずだ。ここは後宮。王族のための沐浴場なのだ。

 少年王はグローリアに気づいて目をうばわれている。

 グローリアはわざと反対側の階段にあがると、ゆっくり少年をかえりみた。ぬぎすてた衣服をとりあげ、立ち去るそぶりを見せる。

 あわてて少年は追ってきた。金糸の刺繍の衣服がぬれるのもかまわず、水中にとびこむ。

「待って!」

 水を吸い、衣が重いだろうに、少年は必死にグローリアのもとへやってきた。

「待って。君は……」
「あらあら、ずぶぬれね」

 グローリアが笑うと、少年は可愛い顔を真っ赤にした。

(この子がウラボロス王。シリウスが大事にしてた、あの少女の兄ね)

 きっと、シリウスはこの少年のことも心から愛しているに違いない。

 あなたの大切なもの、みんな、穢してあげる……。

 グローリアは少年を抱きよせ、唇をかさねた。

 これでいいのだ。自分にはもう何も残されていないのだから。


 *


 そのころ、シリウスは岩山を下山したところだった。常人なら道に迷わなくても四、五日はかかる道程だ。ずばぬけた半神の筋力と平衡感覚を駆使して、つきだした岩から岩へとびうつり、最短距離でおりてきた。

(グローリア)

 みごとにだしぬかれた。悪い女だと知っていて、甘い夢に酔った自分が愚かだったのだ。以前、流浪民の村から消えたことを、もっと怪しんでおくべきだった。

(あの竜犬、ウラボロスのものではなかった。となると、もともと彼女がつれていたことになる。竜犬を所有するのは、どの国にしろ王族。グローリアの背後に国家があるということか)

 そう思えば、グローリアの行動には、どこか計画性があった。彼女のいたテントのなかから、焼け残った手紙が見つかったことも説明がつく。

 グローリアの魔力を利用した、変則的な奇襲攻撃だ。ウラボロスを堕とせば、周辺のペガサス信仰国はかんたんに陥落できる。

(カルバラスからの連絡が途絶えたのも、すでにあの国が堕とされていたからか。同じ魔手がウラボロスに迫っている)

 シリウスは焦燥と後悔の念でいっぱいになった。今この瞬間にもウラボロスに戻りたいが、そのためには塩の砂漠をこえなければならない。

 塩の砂漠——
 大地に残る汚染時代の毒が結晶化し、塩のように地表をおおう地帯。人間が一歩でもふみこめば、数秒で悶死(もんし)する。

 どこまでも広大な不毛の地。
 いちめん白銀の世界は清澄にすら見える。

 神の血と同じだ。
 この世の理から外れた神の世界のものが、空の王の降臨により、ひきさかれた次元から入りこみ、大地を焼いた傷跡。

 シリウスは生まれつき、父から神の世の理を、その身にさずかっている。そのため、塩の砂漠は毒でもなんでもない。

 だが、自分が媒体(ばいたい)となって、ウラボロスに毒を持ちこんではいけない。全身を薄い防御の膜で包み、舞いあがる結晶が体に付着するのをふせいだ。ウラボロスにむけて一直線に走る。

 ふいに行手に人影が立った。
 陽炎か?
 この静かな死の世界に、入りこめる人間などいないというのに……。

 違う。チェンジャーだ。
 全身は塩の色。目は退化してなくなり、歯も口唇もなく、その体は流動体だ。伸縮しながら、砂丘のわずかなくぼみにへばりつく。

 だが、たとえチェンジャーだとしても、この純化した神毒のなかで、人が生きていられるわけがない。ここまで変異の進んだ者は、あとは溶けて消えるのみのはず。

 とは言え、たしかに


 それも一体二体ではない。数えきれないほど、たくさんだ。かつての自分たちの姿に未練を残すように、すっと立って人型を作り、ブルブルとふるえながら崩れていく。

 ぼうぜんとしていると、さらに別のものが見えた。
 岩? いや、違う。もっときれいに切りだされた、四角や三角の巨大な何か。

 シリウスは見た。
 そびえたつ摩天楼の幻影——

(都市だ)

 ここはかつて、都市の中枢部だった。
 見あげるような塔が林立し、黒い石を敷いた大通りを鉄の箱が走る。人々はせわしなく歩きまわり、奇妙なカラクリの物体をあやつりつつ、塔を出入りする。日常の平穏な風景。
 シリウスたちの時代とは何もかもが異なる。が、彼らにとっては、ありきたりな日。

 そこへとつぜん、空を裂き出現した黒い影。
 妖しくゆらめく無数の触手が、一瞬のうちに都市をおおいつくし、破壊する。
 あらゆるものが吸いあげられ、そのあとには怒涛(どとう)のような汚染の波がやってきた。母なる大地は変わりはて、人は人でなくなった。

 異形と化した魔都に、歌が響く。
 空より現れし汚染の王の歌声が。
 その声は万物を破壊する恐怖の象徴でありながら、なぜか不思議と、シリウスを魅了した。

(世界を破滅させ、存在をゆるされぬもの……似ている。グローリアに)

 ゆるされぬものでありながら、途方もなく魅力的なところまで。


 ——見つけて。ほんとのわたしを。醜き(から)の奥。眠り続ける、まことの姿。あなたが求めるなら、わたしはあたえる。永遠の死をこえ、すべての殻をやぶり……。

 シリウスは失神した。
 気がつくと、あたりには何もなかった。都市のあとも、泥のような人々も、ありし日の空の王も。

(幻か)

 過去の幻視。
 はるか古代、この場所に都市があった。
 夢を見たのだ。この場に残る人々の悲しみが、それを見せたのかもしれない。あるいは、シリウスの時間軸が、彼らの嘆きに同調したのか。

(急ごう)

 日が暮れていた。
 一刻も早く、ウラボロスに帰らなければ。
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