九章 6
文字数 2,115文字
ホーリームーンはヒマがあれば、アリアの仕事ぶりをながめるようになった。
アリアは神殿でも最低位の巫女だから、仕事は神殿の掃除や洗濯物といった雑用だ。人の嫌がる労働も、陽気に歌いながらこなすアリアを見ていると、ホーリームーンの悲しみも薄らぐ。
「アリア。この真冬に水は冷たいぞ。私が手伝ってやろう」
「いけません。これは、わたしの仕事ですから」
「洗濯ぐらい、私の魔法でしてやるというのに、強情だな。そなたは」
「わが神さまのお力は、国をお守りいただく、ありがたいものです。こんなつまらないことに使ってはなりません」
「私にとっては小指一本動かすほどの容易なことだ。貸しなさい」
風を起こして洗濯物の入ったカゴを奪いとると、アリアは毛糸の玉をとりあげられた猫みたいに背伸びして、とびはねる。その仕草が可愛らしくて、ホーリームーンは声をあげて笑った。
「まあ、わが神さまが笑っていらっしゃる」
「うん。笑っているな」
自分で自分におどろいた。
アヴィリアメーナが死んでから、笑ったことなど一度もなかった。でも今は自然に笑える。
「どうやら、そなたといると笑えるようだ」
「わたしなどが、わが神さまのお力になれるのでしたら、こんなに嬉しいことはございません」
ホーリームーンはしだいに彼女に惹かれていくのが、自分でもわかった。彼女の魂は未開で、切りだされてきた原石のようだ。アヴィリアメーナの優雅で繊細な魂のきらめきとは似ても似つかないが。
そのころ、神殿ではおかしな話が持ちあがっていた。大神官が彼に人間の女をめとれというのだ。
「この私に人の女を? バカバカしい。一滴の血を受けただけで、多くの人間は悶え死ぬというのに」
「それは重々承知の上。ただ、さきにご崩御なされた、ホーリーサンの面影を追い続けるあなたさまを見るのは心苦しいのです。あなたさまの憂悶が、わずかばかりでも晴れますること、我らは切に願っておりまする」
それは嘘だ。大神官の心の内など、あけっぴろげの戸のなかを見るよりたやすい。
——このかたが我らに残された最後の神。もし万一にでもホーリーサンのようなことがあれば大問題だ。せめて後継のお子があれば、ウラボロスは救われる。
また、大神官はこうも考える。
——それにしても、メリルのやつめ。よりによって神に恋慕するとは……。
つまり、こうだ。
娘が彼に恋慕して、大神官に泣きついた。大神官は娘の願いと自分の願いを一石二鳥に叶えようとしている。
「愚かなことを。二度と、そのことは口にするな」
なぜ、誰もほっといてくれないのだ。私はただ魂の半身の死を悼んでいたいだけなのに。
自室に帰ったとき、そこには、アリアがいた。ベッドを整えている。
「お帰りなさいませ。ただいま仕度が終わります」と言って、ふりかえったアリアは悲しげな目になる。
「お泣きになりたいのですか?」
そうだ。私は泣きたい。
アリアは瞬時、迷っていた。が、ふいにホーリームーンの首に抱きついてきた。やわらかく、優しい胸。
「どうしてかしら? わたし、あなたにこうしてあげたいわ。あなたは神さまなのに」
彼女ならいいと思った。人と契るなんて考えられないが、でも、それがアリアなら。
(アヴィリアメーナの波長が私を包む。私の魂の半分。アヴィリアメーナ……)
その一度の情事が、まさか、アリアに自分の子をはらませる結果になるとは思いもしなかった。
アリアはその事実をひた隠しにした。大神官の娘メリルの嫉妬を恐れてのことだ。
しかし、妊娠を隠すには限度がある。お腹が大きくなり始めると、アリアは神殿をぬけだす決心をした。巫女になった者が神をすてることは禁じられていた。
それで、アリアは神殿の芥子の汁をしぼり、神酒にまぜて、ホーリームーンに飲ませた。ホーリームーンが意識を失っているうちに逃げだそうとしたのだ。
運悪く、メリルに見つかった。アリアは追われる。松明をかざした神殿兵たち。メリルの嫉妬にかられた、残忍な命令。
「アリアを処刑せよ!」
ホーリームーンが目ざめたのは、アリアが断崖から落ちた直後だった。すでに、アリアは月光の湖で冷たくなっていた。
「なぜ、こんなことを……」
アリアの体から魂がぬけだし、空に昇っていく。その魂のきらめきを見て、ホーリームーンは初めて気づいた。
(アヴィリアメーナ!)
それは、アヴィリアメーナの魂だった。アヴィリアの魂の一部と言ったほうがいい。
ホーリームーンは悟った。自分がアリアに惹かれたわけを。
彼女がアヴィリアメーナの生まれ変わりだからだ。アヴィリアのはじけとんだ魂の
(アヴィリアメーナは死んではいない。アヴィリアの魂はこの三千世界のなかに、必ずみんな眠っている)
ホーリームーンは、アリアの魂をそっととらえた。
いつの日か、君のすべてを見つけてみせる。そのとき、また私たちは一つになれるのだ。
そうして、シリウスは死せる母の胎内から、父の手によってとりだされた。
三月たらずの胎児を時間軸で十歳の少年に成長させると、ホーリームーンはまもなく旅立った。時間流のかなたへ。彼の永遠の伴侶の魂を探しに。