八章 4
文字数 2,301文字
叫んでから、侯爵は自分のまちがいに気づいたようだ。
「いや……イリアスではない。その髪の色」
「イリアスの息子、ワレサレスです」
もっとおどろくかと思ったが、意外にも侯爵は、すでにワレスの存在を知っていた。
「そなたが、イリアスの息子か。もっと……もっと、こっちへ。顔をよく見せてくれ」
ワレスは寝台に近づく。
侯爵はしわの刻まれた手を伸ばし、ワレスの頬をなでた。ワレスと同じミラーアイズが、優しい光を帯びて見つめる。
「やはり、そなたが継いでいたか。嬉しいぞ。ワレサレス。ずっと、そなたを探しておった。イリアスが最後に暮らした街を見つけたのは、あれが死んでから数年もたったあとだった。そのときにはもう、そなたの行方はようとして知れなかった。よく生きて……これほど立派に成長して……」
侯爵の目に浮かぶ涙は本物だ。
数十年ぶりに肉親から受ける愛は、素直に心地よかった。自分の生が誰かに喜ばれている。そんな単純なことが、これほど心満たされるものだと、ひさしぶりに実感できた。
「父を探していらっしゃったのですか?」
「ミラーアイズを持つ者は、ラ・スターの当主となるべき定めだ。それが一族の始祖の代からのしきたり。いや、何よりも帰ってきてほしかった。愛する息子に」
「父を愛していらしたのですか?」
「むろんだ。私がいけなかったのだ。イリアスに私と同じ心労をかけたくなかった。家庭の不和を。それで身分違いのそなたの母との結婚をゆるさなかった。だが、駆け落ちするほど愛しあっていたのなら、ゆるしてやればよかった。親心が裏目に出たのだ」
両親が駆け落ちだったことを、ワレスは初めて知った。
「父は身分の違う母と、どのように知りあったのですか?」
「そなたの母ジュリオは、この城の小間使いだった」
では、母も知っていたのだ。父の目が、ラ・スターの当主となる重要な条件であることを。
二人は駆け落ちしたあと、この目を持つ子どもが生まれないことを願っただろう。それはすなわち、ラ・スターを継ぐ資格を失ったことを示す。二人はラ・スター家と無縁となり、安穏と暮らしていくことができた。
しかし、ワレスは生まれてきてしまった。血の呪いは続いていたのだ。
この目があるかぎり、ラ・スター家から追われ続ける。母は……恐れをなして、一人、逃げた……。
思いだすのは、父のあの言葉だ。
——おまえがいけないんだ! おまえのその悪魔の目が!
今なら、父があれをどんな思いで言ったのか、わかる。
(親父はなぜか、おれが母を殺したんだと考えていた。母が親父やおれたちをすてて逃げたんだとしたら、まさしく、それはおれのせい)
そんなはずはない。あの優しかった母が、子どもたちをすてて一人で逃げるはずがないと、理性では打ち消すが、感情は容認していた。
子ども心にも、母の死はとつぜんだった。ある日、急にいなくなって、死んだと父から聞かされた。葬式さえしていない。
母は逃げたのだ。そう思えば、父の絶望の深さの意味もわかる。父がワレスにだけ、ひどくあたったわけも。
(そうか。おれが憎まれたことには、ちゃんと理由があったのか)
むしょうに、ホッとした。
父には父なりに、自分の息子に「生まれてこなければよかった」と言うだけの事情があったのだと知って。
(ああ、そうか……)
おれが父から受けた暴力のなかで、一番ひどかったのは、それだったのか。
実の親に存在を否定されたこと。
あんなの酔っぱらいのたわごとだと思っていた。気にしていないと信じていた。
でも、そうじゃなかったんだな。自分の思っているより、ずっと深いところに、静かにその
今、父は、ワレスの存在を憎んでいたわけではなく、ワレスが『呪』を受けて生まれてきた、そのめぐりあわせの不幸に打ちのめされたのだと知って、こんなにもホッとするほど、ワレスは傷ついていたのだ。
そうと知って、胸の奥のかすかな痛みが消えた。小さな棘のとれる感触があった。
その傷を受けたときの幼いワレスが、小さな指で涙をふいて、にこりと笑うのが見えた。
初めて、ワレスはジュリアスを愛しいと感じた。まぎれもなく、彼はワレスの分身だ。奇跡的にも、一点のくもりもなく純粋に育ったワレス。
だからこそ、ワレスの放った言葉——そんな子ども、おれはいらない——は、彼にはよりいっそう深くつき刺さったはず。
自分が父から受けたのと同じ痛みを、ワレスはジュリアスにあたえてしまった。
(ちゃんと説明してやらなければな。おれがなぜ、あいつをうとんじたのか)
ワレスは祖父の腕のなかで、過去の痛み、今の痛みが昇華していくのを感じた。
「ワレサレス。苦労したのではないか? すまなかった。ゆるしてくれ」
「いいえ。悪いのは、あなたではありません」
そうだ。悪いのは祖父ではない。父が城から逃げだしたほんとの理由は、跡目争いに嫌気がさしたからではないだろうか。
愛人の子と彼をおとしめる継母は、自分の息子を侯爵にするためなら、いかなる手段もいとわない。命の危険を感じたこともあったに違いない。
あの度重なる引越しは、侯爵家に戻されることを恐れてというよりは、正妻の暗殺を案じたせいではないのか。
そんなことを考えていると、廊下をかけてくる足音があった。ノックもなしに扉がひらかれ、気位の高そうな老婦人が入ってくる。侯爵夫人だと、ひとめでわかった。
彼女の険しい表情は、ワレスを目にすると驚愕に変わった。一人では立っていられないほどによろめく。