六章 1
文字数 2,041文字
グローリアの思念が風にちぎれるように、シリウスの胸を刺す。
みんな、わたしをすてていく。お兄さまも、リアックも、ルービンも……。
どんなに手を伸ばしても、虚しく空をつかむばかり。
みんな、どこへ行くの?
どうして、わたしを追いていってしまうの?
(そうだ。グローリア。おまえはいつも血みどろで泣いていた。哀れな、おれの女神)
眼下に湖面が迫る寸前、ワレスは夢からさめた。黒魔術の祭壇で、今まさに生贄にされようとするレリスを見た。
「レリス!」
ワレスがかけよったときには、ハイドラの剣は、レリスの胸につき刺さっていた。
ワレスは怒号を発していた。獣のように怒りにふるえ、愛する者の死におびえて。
しかし、その剣は物質としてではなく、魔法として存在するものだ。
ハイドラはレリスの肉体の扉をひらき、その内へレリスではない別の魂を入れようとしている。
見るも無惨に朽ちはてた、目を覆いたくなるような死体。
それ
は十二公国女王の死体から、レリスのなかへ入りこもうとしている。(魔王だ。あれは、魔王の魂——)
ワレスは夢中で、ハイドラに体あたりした。
たぶん、無意識にミラーアイズの力を使っていた。どんな魔法もはねかえす盾となる、この鏡の目。
魔法はやぶれ、死体はくずれた。ワレスが抱きあげると、レリスは息をふきかえした。
「レリス。大丈夫か?」
「ワレス……」
命に別状はないようだ。胸にも傷はない。やはり、魔法の産物だ。
ハイドラが舌打ちしてつぶやく。
「今の私では、ここまでか」
ハイドラは姿を消した。
ワレスたちは群衆の混乱に乗じて、レリスをつれだした。デッドの手配した船に乗り、島を脱出したものの、故国へ帰るまでには数々の苦難があった。
西の海には古い時代、大陸を追われた邪教徒たちの築いた国々があると、ウワサには聞いていた。皇都にいたころは完全に作り話だと思っていたが、それらは真実だった。
ただし、それらを築いたのは邪教徒などではない。チェンジャーだ。
太古、神の世の影響を受けた者たちが、人間に追いたてられ、逃げのびて生き続けた。その末裔の住む国だ。
代をかさね、血が薄れたことで、ふれるだけで他者をもチェンジャーに変えることはなくなっていたが、その姿は異様だ。
雲つくような巨人の島があった。と思えば、小人の島も。二人の人間が腰でくっついた双子の島。知的で巨大な猫の島。そこでは人間のほうがペットなのだ。
彼らは魔物ではなかった。あくまで形が変質しただけの人間なのだと、話せば理解できた。
彼らは古い時代のユイラ語に似た言語を話し、シリウスたちの時代から一族に伝わる神話を語ってくれた。
「この世は三千の世界からできておる。それは一つの星の誕生から死までの一瞬のつらなる円。円をこえると
つまり、神々の世界は、ワレスたちの世界を数えきれないほどたくさん集めたものを一つのかたまりとする、より高次の世界。
三千世界はまた別の三千世界とつながり、無限に上位の世界を構築していく。
(そういえば、うっすらとしか記憶がないが、おれがシリウスだったとき、見た気がするな。暗い宇宙の闇に浮かぶ、美しい青い星の無数の螺旋。時間軸のなかで見る時の流れ)
シリウスの知る、もっとも美しい景色。あの岩山で、グローリアに見せるはずだった。
(ともかく、神々は去り、おれたちの時代には、当時の名残がわずかに存在する。砦の東の魔族の森や、この西海の島々。それも遠からず浄化され、消えるのだろう。おれや、レリスのなかの古い血も)
そのとき初めて、ワレスにかかる呪いは解けるのだ。誰を傷つけることもなく、古い記憶に縛られることもなく、自由に愛し、愛されることができる。その相手はレリスではないのかもしれない。
いったい、あと何度、生まれ変われば、そんなときが来るのだろう。愛しいのに、憎い。こんな思いをあといくつの生で味わえばいいのだろう。
船旅のあいだ、レリスと顔をあわせているのはつらかった。ある決意をしていたからだ。
ウィルを死なせた償いとして、レリスの前から消えるつもりだった。けれど、運命がこうして、おれとレリスを結びつけるというなら、おれにできるのは、それくらいじゃないか?
二度と、レリスとは抱きあわない。
ウィルは死をもって、ワレスのなかで永遠になったのだ。
「おれとは絶交なんじゃなかったのか?」
ワレスに助けられたくせに、ふてくされているレリスに、ワレスは苦い笑いを禁じ得ない。
「友人としてなら、よしとしよう」
「ふうん」
そんなことを言って、おれが誘えば、どうせ堕ちるんだろう?
レリスはそんな目をしているが、ワレスの決意はかたかった。
ときには、ただの友人であることに苦痛をいだくことも少なからずあった。だが、ワレスは蟻に造船を指揮する創造の神のごとき忍耐力をもって耐えた。